「あれから1年」東日本大震災から1年を過ごした石巻の人たちへのインタビューとそれに対する海外の反応

東日本大震災から1年が過ぎました。
海外のサイトで、石巻で被災し1年を過ごした人たちへのインタビューが載っていました。
そのインタビューの抜粋とそれを読んだ海外の反応です。
引用元:japan-earthquake-anniversary-survivor-stories_n_1307050
■男性:68歳
・津波の時はどうしていましたか?
石巻の中心部から12km離れた自宅にいました。
・どうやって生き延びましたか?
水も電気も無かったのでストーブのお陰で助かる事が出来ました。
ストーブはあったのですが、まず最初にやったのはそれを直すことでした。
冬だったので冷蔵庫の必要はありませんでした。
私は味噌汁などを持っていました。
避難した場所は水が出なかったのですが、辺りには井戸がたくさんありました。
しかしその井戸は深かったのでバケツで組み上げるのに2人がかりでした。
私は1960年、高校生だった時にあったチリ大地震の事を思い出しました。
その時の津波は3mの高さだったので、津波が来るだろう事は分かっていました。
電気が無かったのでテレビがつかなかったため、何が起こっていたのかわかりませんでしたが、カーラジオはありました。
もしテレビで津波の映像を見ていたら半狂乱になっていたかもしれません。
しかし、テレビが無かったので私達は落ち着いていました。
・未来に何を期待しますか?
津波で友人や親戚を亡くしたので、忘れないようにしたいです。
・政府の対応は充分でしたか?
政府の支援は充分ではなく、税金は高いです。
そして福島の原発は今や重要な問題となっているので、その替わりに我々にフォーカスを当てています。
・この震災で学んだ事は?
人々との繋がりが一番大事という事です。
■男性:75歳(酒屋オーナー)、女性:23歳(アーティスト)
・津波の時はどうしていましたか?
男性:私は自宅にいて6階まで避難しました。津波は2階部分までしか来なかったので助かりました。
女性:その時私は大阪にいたのですが、石巻には家族がいました。
テレビで津波の様子を知り、ヒッチハイクで家に戻りました。
自宅は津波で破壊され、たくさんの友人が亡くなりました。
帰る家がなくなるというのは辛い事です。
・どうやって生き延びましたか?
男性:コミュニティセンターに避難して、3日後には電気と水が復旧しました。
自宅には水も電気も無かったのでそこに行ったのです。
・自身にはどのような影響がありましたか?
男性:様々な影響がありました、特に最初の3ヶ月は。
眠る事が出来ず、絶えず周囲をきれいにしていました。
今では落ち着きを取り戻しました。
・未来に何を期待しますか?
男性:仕事を元の状態に戻したいです。それ以外は望みません。
女性:街を元に戻したいです。私は自分のやれること、壁の塗装等をやっています。
・政府の対応は充分でしたか?
男性:政府が何をやったのかよく分かっていないので、それは難しい質問ですね。
女性:政府の支援は充分ではありませんが、今は核の問題の方がより心配だからだと思います。
・この震災で学んだ事は?
女性:一番大事なのはお互い助け合うという事です。それがどんなに時間のかかることでも。
■男性:75歳(花屋オーナー)
・津波の時はどうしていましたか?
その時は山にいました。
・どのように生き延びましたか?
家の中はゴミで溢れていました。
それを捨てるのにはトラックが必要でしたが、それは不可能な状況でした。
10人の人に手伝ってもらって5日かけて家をきれいにしました。
・自身にはどのような影響がありましたか?
たくさんの人が亡くなり、多くの家が失われました。
今では通りに人が戻ってきています。
・政府の対応は充分でしたか?
政府は税金の減免と助成金を検討しています。
・この震災で学んだ事は?
多くの人達が亡くなった事を思うと、生き延びたのは幸運だったんだと思います。
■男性:70歳(タクシードライバー)
・津波の時はどうしていましたか?
その時は石巻にいて、(地震のために)車が揺れはじめました。
ラジオで津波が来る事を聞いたので駅まで戻ると、交番の警官が私に警告してきました。
津波に襲われたとき、私は家に向っている途中でした。
私の車には3人のお客が乗っており、みんなで車の屋根に上がった時、水が車の中に流れ込んできました。
とても寒く、雪が降っていました。
私達はそこで1時間待ち、その後お客の1人である若者が泳いでいって私にロープをよこしてくれ、それで1人ずつ安全な場所まで運びました。
私達はその若者の家の2階で2晩過ごしました。
3日目の朝に水が引いたので私達は家に帰る事が出来ました。
・どうやって生き延びましたか?
水も電気も無かったので、仙台に住んでいた息子が一週間水や食料を運んでくれました。
東京の人たちも食料、ガス、携帯のバッテリーなどを支援してくれました。
・自身にはどのような影響がありましたか?
津波によって車が壊れたので、2ヶ月の間仕事が出来ませんでした。
・未来に何を期待しますか?
2年後には70歳になっているので、おそらく仕事は辞めると思います。
とにかく健康で過ごしたいです。
・政府の対応は充分でしたか?
個人的な意見としては、遅すぎたと思います。
・この震災で学んだ事は?
たくさんの人たちが助けてくれました。
海外からのボランティア、自衛隊、その他多くの人たち。
私達は一緒になって働きました。
■女性:65歳(ギャラリー、カフェオーナー)
・津波の時はどうしていましたか?
その日はギャラリーのオープン初日でした。
石巻に住んでいる人たちは家に戻りましたが、仙台から来た人たちはそういう訳にも行きませんでした。
私達は山へと避難しました。
近辺の地理に疎い仙台からの人たちに、山を越えて家に戻る事を提案しました。
彼らは安全に帰る事が出来ました。
私は家に鍵を掛け、娘に子供とコンピュータを持って逃げるように言いました。
娘は私たちよりも先に家を出て行きました。
私が家を出たとき波は玄関先まで来ていましたが、何とか逃げ出して車に乗り込みました。
私は夫と飼い犬のハッピーが眠る墓地まで運転し、雪の中2晩過ごしました。
私の娘は亡くなりました。
娘は家を新築したのですが、その家とともに流されてしまったのです。
・どうやって生き延びましたか?
海外から来た400人ほどの人達が助けてくれました。
地震から5日後、私は他の人よりも早く家に帰りました。
息子の妻が秋田から助けに来てくれました。
みんなは川からポンプで水をくみ上げ、それで家の中に入り込んだ泥を掃除しました。
最初は食べる物もありませんでした。
水と電気が復旧したのは5月になってからです。
それまではろうそくで過ごし、トイレは外の繁みで済ませました。
まるで中世の暮らしのようでしたが、徐々に慣れていきました。
・自身にはどのような影響がありましたか?
私のいた地域では38人の人が亡くなりました。
この地域への影響は悪いものです。
私のギャラリーの前にあったビルは破壊され、お客は今までよりも来なくなってしまいました。
そして、あまりに多くの感情を引き起こされるため、川を見る事が出来ない人も出てきました。
・未来に何を期待しますか?
4~5年は仕事を続けたいと思っています。
しかし、地元の行政がこの街を復旧しないのではないかと恐れています。
それは不可能に近いので、彼らはこの土地から立ち退かせようとするかもしれません。
・政府の対応は充分でしたか?
仮設住宅の人たちは充分支援されています。
しかし、仮設住宅の暮らしの方が快適であり、自宅で個々に暮らすのが現時点では非常に困難であったとしても、自宅で暮らしたいと強く願う人たちもいます。
そういう人たちには政府の支援は全くありません。
・この震災で学んだ事は?
自然はとても強いという事、津波が来たら高い所にあがるということ。
↓この記事を読んだ海外の反応
●サウシングトニオン
彼らは、災害時に生き延びるためには社会の一員であることが不可欠というのが真実である事の生きた証拠なんだと思う。
アメリカで広がりつつある”生き残るのに必要なのは力”、”グループではなく個人”は全く道理から外れてるよ!
●ロッキーミズーリ
この人たちは美しいなんて言葉じゃ語れない。
その魂は信じられないほどだ…彼らは文字通り全てを見てきたんだ。
●シー・ソウ・ストローク・ハー・エゴ
・この震災で学んだ事は?
人々との繋がりが一番大事という事です。
友情は大事ではあるが、一番大事ではない。
人を信じれば、それを失ったときの失望も大きい…本当に信じられるのは神のみだ。
●アイリッシュキッズ1234
この人たちに”名誉”を。
手助けする事は出来なくても賞賛を。
●サラ・T・スミス
何で私達は政府が助けるべきと考えるんだろう?
それこそが私たちの抱える問題なんだろうな。
政府は対応してくれない。
助けが必要な時に助けてくれるのは家族であり、教会。
私達は政府に大金を払う事を止めるべきだよ。
私たちの生活のためにも、家族と教会が仕事をする事が出来るように、政府に金を払うことの替わりに教会に払おう。
政府には目的があるし、税金の幾つかにも使用目的があるけど、社会主義がいつもそれを台無しにするんだ。
●リック・ベイラー
日本の政府は自国の国民を救う事に失敗している。
MMAファイターのエンセン井上のような人たちが自分のお金で食料を買って人々にくばり、家を失った犬に餌を与えているんだ。
出来る事をしてみんなを助けてるんだよ。
●ジョリーン835
この地震、津波の悲劇の中、私が一番驚いたのは無辜の人々を流し去る巨大な波じゃなく、瓦礫の中から立ち上がり片付け始めた日本人の規律力だった。
彼らは政府が助けに来るのを待ってはいなかった。
彼らは他の国のように略奪者が横行する事を心配していなかったし、助けに来た人たちに銃を向けるような事もしなかった。
彼らの対応に比べて、同様の荒廃の中我々が何をしたのか恥を知るべきだ。
日本ではアメリカのようなトラウマ的な出来事、略奪者が持てるだけの物を奪い去っていったり、誰が傷ついていようが構わないといった事は無かった。
個人的な意見(あくまで個人的な、だ)は…略奪者はとにかく撃ち殺せ、だ。
日本人には脱帽だ。
我々は彼らのレベルまで登る必要がある。
●エリック67
インディアナ州、ミズーリ州にハリケーンが襲ってきたとき、農村地帯の人たちはお互い助け合っていたのに、ニューオーリンズ州やロサンジェルスといったより文化的な人たちはお互いに奪い合ったり、レスキューに来た人を襲撃していた事が恥ずかしいよ。
社会の一員であるということの一番のポイントは、自分の持ち物を護る前にまず助けが必要な人を助けるのが最優先事項だという事だ
この記事の人たちからは学ぶべき事がある。
彼らは自分達の最優先事項を真っ先に行っているよ。
●ヘミパワー54
”支援は充分ではなく、税金は高い”
政府はいずこも同じか。
●ジョリーン835
そこに我々と日本人との違いがあるんだよね。
彼らは政府が”支援を強化する”と言うまで座って待ち続けてなんかいない。
彼らは立ち上がり、物事を受け入れて瓦礫を掘り起こした。
一方私達はというと、政府が何もかもしてくれると思って、災害の後5年間も待ち続けているんだ。
●ヘミパワー54
↑えー、俺の知ってる普通のアメリカ人はちゃんとやったけど。
一体何処に住んでるんだ?
●フォックキットル
日本とニューオーリンズなんかの民衆の感情を比較する事は興味深いな。
●ビルレナルド77
日本人がお互い助け合っているのは凄く興味深いね。
我々の中の一部のとある政治的主義者達とは違う。
●トーリ
ニューオーリンズや他の中西部の州は緊急に助けが必要な状況だったのに、恥ずべき事に我々の政府は自分たちの事しか気にかけてないんだ。
ああ、バラク・オバマは400万ドルの税金をかけて17日間の休日をとっていたっけ。
(訳注:オバマはハワイでクリスマス休暇を17日間取り、それに400万ドルかかったと報じられている)
彼は休暇をキャンセルして、そのお金を国の必要とされる所に使うべきだったんだ。
FEMA(アメリカ合衆国連邦緊急事態管理庁)もインディアナや他のハリケーンの被害に遭った地域に関して心配する事もなくなるのに。
なんてクソったれな冗談だ!
●ルーリー・レイ
私は(ニューヨークの)ロングアイランドに住んでて、去年自分のオフィスでこんな事があった。
その時は私の顧客が自動車保険を払いに来ていて、私は手に領収書のファイルを持っていた。
ファイルを開いて領収書に目を落としたとき、不穏な揺れを感じた。
最初はめまいかと思って感覚を取り戻すために眼を上げたら顧客が恐怖におののいていた。
その時にこれが地震だと気がついた。
それはマグニチュード5.8の地震で、震源地はバージニア州だった!
それだけでショックなのに、マグニチュード9.0の地震が自分の街を襲うことなんて想像できる?
それを越えてきた日本の人たちは凄すぎる。
●ペピ・ロナルド
↑自分はその時仙台に住んでいて(自分は日本人ではない)君に凄く共感するよ。
奇妙な話なんだけど、地震そのものは最悪というわけじゃなかったんだ。
それは試練の一週間(そしてその後数ヶ月に続く余震)の始まりだった。
去年の8月、自分はオーストラリアに戻ったが、今は週末に行われる追悼式典のために仙台に来ている。
我々は未だ地震の影響がある毎日を送っている日本の人たちを忘れてはいけない。
。
●モンタナジアン
文化的で規律と尊敬のあるコミュニティは今も息づいているんだ!
●ジェル3800
↑このような状況の人々が見せてくれる強さと尊厳にはいつも深い感銘を受けている。
我々の国だと予想されるような略奪や犯罪がない事は言うまでもない。
●ミグ15
インタビューを受けていた人も日本も、両者とも強いな。
日本人は働く事、教育の重要性を理解しているよ。
●ファヒド・ムサラム
素晴らしい人たちの人物像とプライドを見る事が出来た。
●リーフマン88
増税が助けになると信じているのが我々の政府だけじゃない事が悲しい。
●グロリア・オースティン
将来への唯一の望みが亡くなった家族を忘れないようにする事だなんて、何てアメージングな文化なんだ。
彼らには心が張り裂けそうだよ。
●アンクルクラッカー
強く、誇り高い人たちだ。
彼らがお互いを助け合っている事が嬉しいよ。
再建だけじゃなく、悲劇自体に対処するためにもそれが復旧に一番大事なことなんだ。
悲しみを和らげ、気にかけてくれる人を知り、そこに助けとサポートが生まれるんだ。
●カトリオナ
全ての人たちに祝福を。
●アンドブードゥー2
自分はカトリーナの後、電気のない状態で5週間を過ごした。
人々の繋がりが一番大事という言葉は全く正しいよ。
私達は隣人と協力して道路を綺麗にし、お互いを気にかけあったんだ。
我々は独りじゃなかった。
まず、自分の隣人を知るんだ。
●セシリー
そして親切にする事…
アメリカ人は怒ってばかり(全てではないけど)…
去年は全く激動の一年でした。
新燃岳の噴火に始まり、東日本大震災、原発、大雨、大雪…
被災された全ての地域の、1日も早い復興を願って止みません。
・津波の時はどうしていましたか?
石巻の中心部から12km離れた自宅にいました。
・どうやって生き延びましたか?
水も電気も無かったのでストーブのお陰で助かる事が出来ました。
ストーブはあったのですが、まず最初にやったのはそれを直すことでした。
冬だったので冷蔵庫の必要はありませんでした。
私は味噌汁などを持っていました。
避難した場所は水が出なかったのですが、辺りには井戸がたくさんありました。
しかしその井戸は深かったのでバケツで組み上げるのに2人がかりでした。
私は1960年、高校生だった時にあったチリ大地震の事を思い出しました。
その時の津波は3mの高さだったので、津波が来るだろう事は分かっていました。
電気が無かったのでテレビがつかなかったため、何が起こっていたのかわかりませんでしたが、カーラジオはありました。
もしテレビで津波の映像を見ていたら半狂乱になっていたかもしれません。
しかし、テレビが無かったので私達は落ち着いていました。
・未来に何を期待しますか?
津波で友人や親戚を亡くしたので、忘れないようにしたいです。
・政府の対応は充分でしたか?
政府の支援は充分ではなく、税金は高いです。
そして福島の原発は今や重要な問題となっているので、その替わりに我々にフォーカスを当てています。
・この震災で学んだ事は?
人々との繋がりが一番大事という事です。
■男性:75歳(酒屋オーナー)、女性:23歳(アーティスト)
・津波の時はどうしていましたか?
男性:私は自宅にいて6階まで避難しました。津波は2階部分までしか来なかったので助かりました。
女性:その時私は大阪にいたのですが、石巻には家族がいました。
テレビで津波の様子を知り、ヒッチハイクで家に戻りました。
自宅は津波で破壊され、たくさんの友人が亡くなりました。
帰る家がなくなるというのは辛い事です。
・どうやって生き延びましたか?
男性:コミュニティセンターに避難して、3日後には電気と水が復旧しました。
自宅には水も電気も無かったのでそこに行ったのです。
・自身にはどのような影響がありましたか?
男性:様々な影響がありました、特に最初の3ヶ月は。
眠る事が出来ず、絶えず周囲をきれいにしていました。
今では落ち着きを取り戻しました。
・未来に何を期待しますか?
男性:仕事を元の状態に戻したいです。それ以外は望みません。
女性:街を元に戻したいです。私は自分のやれること、壁の塗装等をやっています。
・政府の対応は充分でしたか?
男性:政府が何をやったのかよく分かっていないので、それは難しい質問ですね。
女性:政府の支援は充分ではありませんが、今は核の問題の方がより心配だからだと思います。
・この震災で学んだ事は?
女性:一番大事なのはお互い助け合うという事です。それがどんなに時間のかかることでも。
■男性:75歳(花屋オーナー)
・津波の時はどうしていましたか?
その時は山にいました。
・どのように生き延びましたか?
家の中はゴミで溢れていました。
それを捨てるのにはトラックが必要でしたが、それは不可能な状況でした。
10人の人に手伝ってもらって5日かけて家をきれいにしました。
・自身にはどのような影響がありましたか?
たくさんの人が亡くなり、多くの家が失われました。
今では通りに人が戻ってきています。
・政府の対応は充分でしたか?
政府は税金の減免と助成金を検討しています。
・この震災で学んだ事は?
多くの人達が亡くなった事を思うと、生き延びたのは幸運だったんだと思います。
■男性:70歳(タクシードライバー)
・津波の時はどうしていましたか?
その時は石巻にいて、(地震のために)車が揺れはじめました。
ラジオで津波が来る事を聞いたので駅まで戻ると、交番の警官が私に警告してきました。
津波に襲われたとき、私は家に向っている途中でした。
私の車には3人のお客が乗っており、みんなで車の屋根に上がった時、水が車の中に流れ込んできました。
とても寒く、雪が降っていました。
私達はそこで1時間待ち、その後お客の1人である若者が泳いでいって私にロープをよこしてくれ、それで1人ずつ安全な場所まで運びました。
私達はその若者の家の2階で2晩過ごしました。
3日目の朝に水が引いたので私達は家に帰る事が出来ました。
・どうやって生き延びましたか?
水も電気も無かったので、仙台に住んでいた息子が一週間水や食料を運んでくれました。
東京の人たちも食料、ガス、携帯のバッテリーなどを支援してくれました。
・自身にはどのような影響がありましたか?
津波によって車が壊れたので、2ヶ月の間仕事が出来ませんでした。
・未来に何を期待しますか?
2年後には70歳になっているので、おそらく仕事は辞めると思います。
とにかく健康で過ごしたいです。
・政府の対応は充分でしたか?
個人的な意見としては、遅すぎたと思います。
・この震災で学んだ事は?
たくさんの人たちが助けてくれました。
海外からのボランティア、自衛隊、その他多くの人たち。
私達は一緒になって働きました。
■女性:65歳(ギャラリー、カフェオーナー)
・津波の時はどうしていましたか?
その日はギャラリーのオープン初日でした。
石巻に住んでいる人たちは家に戻りましたが、仙台から来た人たちはそういう訳にも行きませんでした。
私達は山へと避難しました。
近辺の地理に疎い仙台からの人たちに、山を越えて家に戻る事を提案しました。
彼らは安全に帰る事が出来ました。
私は家に鍵を掛け、娘に子供とコンピュータを持って逃げるように言いました。
娘は私たちよりも先に家を出て行きました。
私が家を出たとき波は玄関先まで来ていましたが、何とか逃げ出して車に乗り込みました。
私は夫と飼い犬のハッピーが眠る墓地まで運転し、雪の中2晩過ごしました。
私の娘は亡くなりました。
娘は家を新築したのですが、その家とともに流されてしまったのです。
・どうやって生き延びましたか?
海外から来た400人ほどの人達が助けてくれました。
地震から5日後、私は他の人よりも早く家に帰りました。
息子の妻が秋田から助けに来てくれました。
みんなは川からポンプで水をくみ上げ、それで家の中に入り込んだ泥を掃除しました。
最初は食べる物もありませんでした。
水と電気が復旧したのは5月になってからです。
それまではろうそくで過ごし、トイレは外の繁みで済ませました。
まるで中世の暮らしのようでしたが、徐々に慣れていきました。
・自身にはどのような影響がありましたか?
私のいた地域では38人の人が亡くなりました。
この地域への影響は悪いものです。
私のギャラリーの前にあったビルは破壊され、お客は今までよりも来なくなってしまいました。
そして、あまりに多くの感情を引き起こされるため、川を見る事が出来ない人も出てきました。
・未来に何を期待しますか?
4~5年は仕事を続けたいと思っています。
しかし、地元の行政がこの街を復旧しないのではないかと恐れています。
それは不可能に近いので、彼らはこの土地から立ち退かせようとするかもしれません。
・政府の対応は充分でしたか?
仮設住宅の人たちは充分支援されています。
しかし、仮設住宅の暮らしの方が快適であり、自宅で個々に暮らすのが現時点では非常に困難であったとしても、自宅で暮らしたいと強く願う人たちもいます。
そういう人たちには政府の支援は全くありません。
・この震災で学んだ事は?
自然はとても強いという事、津波が来たら高い所にあがるということ。
↓この記事を読んだ海外の反応
●サウシングトニオン
彼らは、災害時に生き延びるためには社会の一員であることが不可欠というのが真実である事の生きた証拠なんだと思う。
アメリカで広がりつつある”生き残るのに必要なのは力”、”グループではなく個人”は全く道理から外れてるよ!
●ロッキーミズーリ
この人たちは美しいなんて言葉じゃ語れない。
その魂は信じられないほどだ…彼らは文字通り全てを見てきたんだ。
●シー・ソウ・ストローク・ハー・エゴ
・この震災で学んだ事は?
人々との繋がりが一番大事という事です。
友情は大事ではあるが、一番大事ではない。
人を信じれば、それを失ったときの失望も大きい…本当に信じられるのは神のみだ。
●アイリッシュキッズ1234
この人たちに”名誉”を。
手助けする事は出来なくても賞賛を。
●サラ・T・スミス
何で私達は政府が助けるべきと考えるんだろう?
それこそが私たちの抱える問題なんだろうな。
政府は対応してくれない。
助けが必要な時に助けてくれるのは家族であり、教会。
私達は政府に大金を払う事を止めるべきだよ。
私たちの生活のためにも、家族と教会が仕事をする事が出来るように、政府に金を払うことの替わりに教会に払おう。
政府には目的があるし、税金の幾つかにも使用目的があるけど、社会主義がいつもそれを台無しにするんだ。
●リック・ベイラー
日本の政府は自国の国民を救う事に失敗している。
MMAファイターのエンセン井上のような人たちが自分のお金で食料を買って人々にくばり、家を失った犬に餌を与えているんだ。
出来る事をしてみんなを助けてるんだよ。
●ジョリーン835
この地震、津波の悲劇の中、私が一番驚いたのは無辜の人々を流し去る巨大な波じゃなく、瓦礫の中から立ち上がり片付け始めた日本人の規律力だった。
彼らは政府が助けに来るのを待ってはいなかった。
彼らは他の国のように略奪者が横行する事を心配していなかったし、助けに来た人たちに銃を向けるような事もしなかった。
彼らの対応に比べて、同様の荒廃の中我々が何をしたのか恥を知るべきだ。
日本ではアメリカのようなトラウマ的な出来事、略奪者が持てるだけの物を奪い去っていったり、誰が傷ついていようが構わないといった事は無かった。
個人的な意見(あくまで個人的な、だ)は…略奪者はとにかく撃ち殺せ、だ。
日本人には脱帽だ。
我々は彼らのレベルまで登る必要がある。
●エリック67
インディアナ州、ミズーリ州にハリケーンが襲ってきたとき、農村地帯の人たちはお互い助け合っていたのに、ニューオーリンズ州やロサンジェルスといったより文化的な人たちはお互いに奪い合ったり、レスキューに来た人を襲撃していた事が恥ずかしいよ。
社会の一員であるということの一番のポイントは、自分の持ち物を護る前にまず助けが必要な人を助けるのが最優先事項だという事だ
この記事の人たちからは学ぶべき事がある。
彼らは自分達の最優先事項を真っ先に行っているよ。
●ヘミパワー54
”支援は充分ではなく、税金は高い”
政府はいずこも同じか。
●ジョリーン835
そこに我々と日本人との違いがあるんだよね。
彼らは政府が”支援を強化する”と言うまで座って待ち続けてなんかいない。
彼らは立ち上がり、物事を受け入れて瓦礫を掘り起こした。
一方私達はというと、政府が何もかもしてくれると思って、災害の後5年間も待ち続けているんだ。
●ヘミパワー54
↑えー、俺の知ってる普通のアメリカ人はちゃんとやったけど。
一体何処に住んでるんだ?
●フォックキットル
日本とニューオーリンズなんかの民衆の感情を比較する事は興味深いな。
●ビルレナルド77
日本人がお互い助け合っているのは凄く興味深いね。
我々の中の一部のとある政治的主義者達とは違う。
●トーリ
ニューオーリンズや他の中西部の州は緊急に助けが必要な状況だったのに、恥ずべき事に我々の政府は自分たちの事しか気にかけてないんだ。
ああ、バラク・オバマは400万ドルの税金をかけて17日間の休日をとっていたっけ。
(訳注:オバマはハワイでクリスマス休暇を17日間取り、それに400万ドルかかったと報じられている)
彼は休暇をキャンセルして、そのお金を国の必要とされる所に使うべきだったんだ。
FEMA(アメリカ合衆国連邦緊急事態管理庁)もインディアナや他のハリケーンの被害に遭った地域に関して心配する事もなくなるのに。
なんてクソったれな冗談だ!
●ルーリー・レイ
私は(ニューヨークの)ロングアイランドに住んでて、去年自分のオフィスでこんな事があった。
その時は私の顧客が自動車保険を払いに来ていて、私は手に領収書のファイルを持っていた。
ファイルを開いて領収書に目を落としたとき、不穏な揺れを感じた。
最初はめまいかと思って感覚を取り戻すために眼を上げたら顧客が恐怖におののいていた。
その時にこれが地震だと気がついた。
それはマグニチュード5.8の地震で、震源地はバージニア州だった!
それだけでショックなのに、マグニチュード9.0の地震が自分の街を襲うことなんて想像できる?
それを越えてきた日本の人たちは凄すぎる。
●ペピ・ロナルド
↑自分はその時仙台に住んでいて(自分は日本人ではない)君に凄く共感するよ。
奇妙な話なんだけど、地震そのものは最悪というわけじゃなかったんだ。
それは試練の一週間(そしてその後数ヶ月に続く余震)の始まりだった。
去年の8月、自分はオーストラリアに戻ったが、今は週末に行われる追悼式典のために仙台に来ている。
我々は未だ地震の影響がある毎日を送っている日本の人たちを忘れてはいけない。
。
●モンタナジアン
文化的で規律と尊敬のあるコミュニティは今も息づいているんだ!
●ジェル3800
↑このような状況の人々が見せてくれる強さと尊厳にはいつも深い感銘を受けている。
我々の国だと予想されるような略奪や犯罪がない事は言うまでもない。
●ミグ15
インタビューを受けていた人も日本も、両者とも強いな。
日本人は働く事、教育の重要性を理解しているよ。
●ファヒド・ムサラム
素晴らしい人たちの人物像とプライドを見る事が出来た。
●リーフマン88
増税が助けになると信じているのが我々の政府だけじゃない事が悲しい。
●グロリア・オースティン
将来への唯一の望みが亡くなった家族を忘れないようにする事だなんて、何てアメージングな文化なんだ。
彼らには心が張り裂けそうだよ。
●アンクルクラッカー
強く、誇り高い人たちだ。
彼らがお互いを助け合っている事が嬉しいよ。
再建だけじゃなく、悲劇自体に対処するためにもそれが復旧に一番大事なことなんだ。
悲しみを和らげ、気にかけてくれる人を知り、そこに助けとサポートが生まれるんだ。
●カトリオナ
全ての人たちに祝福を。
●アンドブードゥー2
自分はカトリーナの後、電気のない状態で5週間を過ごした。
人々の繋がりが一番大事という言葉は全く正しいよ。
私達は隣人と協力して道路を綺麗にし、お互いを気にかけあったんだ。
我々は独りじゃなかった。
まず、自分の隣人を知るんだ。
●セシリー
そして親切にする事…
アメリカ人は怒ってばかり(全てではないけど)…
去年は全く激動の一年でした。
新燃岳の噴火に始まり、東日本大震災、原発、大雨、大雪…
被災された全ての地域の、1日も早い復興を願って止みません。
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