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海外の俳句ファン「俳句って575に拘る必要あるの?」

haiku OS


俳句は世界中にファンがいます。
とは言っても日本語環境下で生まれ育った文芸だけに、他の言語で詠む場合は音数や表現を合わせるのが非常に困難です。
俳句と言えば575の音数で詠む事が一般的ですが、英語圏においては5音節、7音節、5音節で詠むのがセオリーとなっているようです。
とはいえ、それでも合わせるのは難しいようで1人の俳句ファンが、あえて575に合わせる必要はあるのかと疑問を呈していました。

引用元:Why do some people feel 575 is the only way to go?



●フロリダ州、アメリカ:女性:47歳
私が出会った人達の何人かは俳句は575のパターンに合わせなくちゃいけないと言っていた。
彼らはその事にかなり拘っていて、そうじゃないものは”間違ってる”と感じているみたい。
日本の俳句のほとんどがそのフォーマットに従っているのは知ってるけど、翻訳する時はそれに拘っていないよね。
なんでその事にそんなに拘ってるのか単純に興味があるんだ。

●カリフォルニア州、アメリカ:男性:65歳
ハイ。
そういう考えは中学、高校、大学みたいなものから来てるんじゃないかな。
もし記憶違いじゃなければ、私が子供の頃は575が唯一教えられた事だったんだ。
(私はいま65歳だ!)
彼らが違いを知れば、それは地上の塵の様に些細な事なんだと気付くと思うよ。
人々は教えられてきた事、信じてきた事のために立ち上がるものなんだ。
それは自然なことだよ。
そこから情熱はやって来るんだと思う。
私自身は気にした事も無い。
日本語と英語の異なる側面を比較し、学ぶような教育システムを作り上げるのは長い時間と労力を必要とするだろうね。
これは氷山の一角に過ぎないから。
彼らも経験を多く積めば、自分の詠みたい様に詠むようになるんじゃないかな…そうなれば万事よしだ!!

●女性
ヘロー。
何人かの人達が575に情熱を注いでる事は知ってるけど、彼らがそれ以外の俳句を”間違っている”と言ってるのは聞いた事が無いな。
俳句を詠む時に自分自身が575に拘ることと、それに全ての人が従うべきだと考えるのは大きな違いがあると思う。
後者に関しては何故そんなに強く拘っているのか考えるのは難しいね。
彼らは人生の中で文字数を限定して詠む事が好きになり、それがより本物だと思っているのかな?
そういう風にしようと思った人達がここに来て私達を啓蒙してるんだろうね。
私自身は、475とか565とか収まりがよいように微調整してなるべく575に近いようにしようと心がけてるかな。
でもそのパターンに拘ったりはしてない。
それと575で書かれた凄く良く出来た俳句も詠んだ事あるよ。

●アバディーン、スコットランド、UK:男性:44歳
私は575で詠んでる。
575で詠もうとする精神的な挑戦が好きなんだ。
でも、実際の所その形式を厳守してるわけじゃなくてむしろ逆のこと、私の詠む句のほとんどが短いものになってるんだけどね。

i think ppl are conservative (人は保守的だと思う)
that is why they go with what they are taught(彼らは教えられてきたことに従っているからだ)
and are reluctant to change(変化に消極的でもある)

個人的に詩として読めるなら…それでいいんだ。

●不明
私の場合逆の事を疑問に思ってる。
何故俳句雑誌は575形式を拒否するのか、具体的にはそれを送るべきではないと言ってるのだろうか?
音節数を固持しない事、575の音節数を護ることも理解できるが、読みもせずに575を除外するのは変だと思う。

●ニューブランズウィック州、カナダ:女性
ええと、他の人に関しては分からないけど私としては、575の音節で書かれた俳句のほとんどが冗長になってしまう傾向にあるというのが問題の論点だと思う。
俳句を正しい音節数にするために余計な言葉を付け足す事がよくあるから。
普通、英語の575形式で詠まれた俳句は、伝統的な575形式で詠まれた日本語の俳句よりも多くの情報を持っている。
英語の音節と日本語の音(おん)は同じものでは無いから。
日本語の音(”おん”や”かな”と呼ばれている)は英語の音節よりも短いんだよね。
日本語の音数に影響を与えているもう1つの点は、話し言葉や書き言葉で句読点として用いられている切れ字の存在があるね。
この切れ字は音数の中に含まれている。
つまり17音節使った英語の俳句を日本語に訳す場合、17音以上になってしまう可能性があるという事だね。

●不明
>何故俳句雑誌は575形式を拒否するのか、具体的にはそれを送るべきではないと言ってるのだろうか?
言ってる事がよく分からないな。
私は575で詠む事にこだわって無いけど、もしそのフォーマットで上手く詠む事が出来たらそれをファイナルバージョンにしているよ。
575音節の俳句を『The Heron's Nest』や俳人のための『From the Gean』等、幾つかの雑誌に採用されたこともあったし。
この形式で詠んだ俳句を他の誰かに認められたのは嬉しかったな。

●ニューブランズウィック州、カナダ:女性
↑同意する。
Berry Blue Haiku(子供向けのオンライン俳句雑誌)なんかだと短い句になる傾向があるけど、私達が発刊してる俳句は575形式で公開してるよ。
良く出来た俳句なら音節数は問題じゃないかな。

●アバディーン、スコットランド、UK:男性:44歳
何故575を使わないのか、というのは良い着眼点だね。
この575の俳句に注目してもらおうと思う。

Dangerous pavements(危険な街路だ)
But I face the ice this year(しかし今年の私は氷に立ち向かう)
With my father's stick(父の杖と共に)

この句は俳句として必要なものを全て持っていると思う。
季語が入っていて、省略した部分や水増しした部分もないように見える。
しかも”しかし(but)”が”詩”として別の側面を与えていもする。
彼が昨年杖を使っていなかったという事は、彼の父親の死を推測する事も出来るだろう。以前私が言った様に、詩として作用しているならそれでいいんだ。
この句はニューヨーク在住のアイルランド詩人にしてノーベル文学賞受賞者、シェイマス・ヒーニーが詠んだものだ。
wikipedia:ジェイマス・ヒーニー

●アメリカ
英語での575形式俳句に対する長所、欠点が見れて嬉しいよ。
私は(小説家の)リチャード・ライト(wikipedia)の大ファンで、彼は575形式で詠んでるんだよね。
私達はちょっと自由律の俳句に心奪われすぎで、詠んだ詩を見る事を忘れてないかな?
きちんと詩になっているか?
イメージ/考えを伝えているか?
言葉が響いているか?という事を。
私の言った事とは関係なく、音節数っていうのは俳句を詠む中で一番大事な部分だと思う。

●不明
もし想像力(無意識的創造力)が575形式に魅了されているならそれでいけばいいし、それを自分の喜びであると主張すればいい。
それは自由なんだし、(自由や創造的な)感情や経験を得た時にはそれを多々壊すようになると思ってるよ。
別の言葉で言うなら、創造性に応じて適宜変更せよ、だ。

●不明
みんなが走っている俳人に向かう高速道路にはこんな道路標識が立っているよ。
即ち

REDUCED(とりあえず)
SYLLABLE COUNT(文節数を)
AHEAD(減らすべし)


●ニューブランズウィック州、カナダ:女性
↑笑った!
凄く良いね!

●不明
私が気に入った詩を見つけた時、それは大抵575の句なんだよね。
(時にはそれを気付かなかった事もある位!)
最悪な句にあって、最高の句には無いもの。
それは水増しした言葉。
個人的には自由律の句を詠んでいて、575形式で詠もうとした時もあったけど、それは凄く難しい事が分かったよ。
規定の音節内で俳句を詠んでいる人には脱帽する。
私は音節数で俳句の良し悪しを判断する事は無いけど、読んだ時や口に出した時のリズムやペースでは判断するね。
ここで新人の人たちにコツを。
自分の詩を口に出して読んでみよう。
もし舌が泳ぐようなら、眼もそうなる可能性がある。
声に出して読む事で(例え息遣いで詩に聞こえなくても)どこを直すべきかを”聞く”事になるからね。

●イースト・サセックス州、UK:女性
17音節は575形式にならなくても、1-2-3-5-3-2-1みたいなフィボナッチ俳句にはできるよね。
(訳注:フィボナッチ俳句はフィボナッチ数式にちなんで1-1-2-3-5-8音節で詠む俳句)
One(1つの)
Small,(小さく)
Precise,(正確で)
Poetic,(詩的な)
Spiraling mixture:(螺旋の混合物)
Math plus poetry yields the Fib(数学と詩はフィボナッチをもたらす)

wikipedia:フィボナッチ数

●フロリダ州、女性:47歳
フィボナッチ俳句大好き!
575の持つ数学的な要素が好きなんだけど、それで詠む努力は止めちゃってるんだよね。
偶然にも再びそれをやってみようという気になってたんだ。
数学にインスパイアされたチェス大会の句を詠んでみたよ。
(私はチェスのコーチをしてるから)

forty eager faces(熱意ある40人)
twelve hundred and eighty squares(1200と80のマス目)
one winner(勝者は1人)

(どんな評価になるかは分からないけど、40人の生徒達がゲームに挑む様子をみんなと共有したいと思ったの。パワフルな瞬間だった!)

●イースト・サセックス州、UK:女性
↑良い俳句だね。
フィボニッチ俳句を詠んでみようと思ったけど、上手く収まる句を考えられなかった。
フィボニッチ俳句は面白いけど、詠むのは忍耐力が要るね。

●男性
575か。
5のダッシュ(-)
7つのダッシュに
5つの!

伝統的に縦書きで書かれ、読む事が心地よい5文字(日本人にはそれぞれの文字が区切られて聞こえる)7文字、5文字を5音節、7音節、5音節にしようというのがそもそも間違いなんだと常々思ってるよ。

ネイティブな日本語で読んでいる俳句を、日本語を流暢に話せない日本人以外の人が話そうとした場合、途切れて聞こえるはずだ。
今や…音節で区切るという英語圏での福音となった方法は私の手に余る。
一応言っておくと、私の批判はレジナルド・ブライスに向けられたものだ。
(訳注:レジナルド・ブライスは西洋圏に俳句を紹介したイギリスの文学者・日本文化研究家:wikipedia

音節数(count)の事を言うなら…良い詩は良い詩なんだから、音節数なんか関係ない(don't count)良い詩を数え切れないほど見てきたよ。
(訳注:音節数は関係ないと数え切れないを”don't count”でかけている)

●ミネアポリス、ミネソタ州、アメリカ
ちょっと拘りすぎかもしれないけど、自分は詩の内容をまげて575形式にしてるよ。
クリスマスカードに一句添えて出したんだけど、俳句の事をよく知らない人達のためにこれは俳句だと分かってもらうために575形式にしたんだ。
もっと厳格にやるべきだったかもね。

●不明
↑友人や家族に贈るものだったらそんなに厳格にすることも無いと思うけどね。
近代俳句や一行詩俳句って呼ばれてるものもあるんだし。
17音節で詠まれていればどんな酷い俳句でも俳句と見なして、17音節以下で詠まれた俳句を下に見る人がいるのは残念でならないよ。
17音節の俳句はそれだけで良いものだと見なされてるのかな?

●ニュージャージー州、アメリカ
ミニマリストであろうとなかろうと、多くの人達が17音節を超えることを怖れてhippopotamus(カバ)やcalamari(イカ)という言葉を使うことを避けてるんだよな。
私の俳句は基本的に縮めて使ってる。
squidよりもcalamariの方が使い勝手が良いこともあるし、こういう長い言葉は時に新鮮でもあるからね。

In a swarm of yellow-jacketsz(黄色ジャケットをまとった群れの中)
a squirrel drinks water(1匹のリスが水を飲んでいる)
feet in the cool clay, head way down.(足は冷たい粘土に、頭を下げて)
ゲーリー・スナイダー
(アメリカの詩人。京都に滞在して臨済禅を学び、宮沢賢治の詩の英訳などを行う:wikipedia




日本語のように1音1語だと英語で詠むとほぼ単語の羅列でしかなくなり、音節で575にすると時に冗長になってしまい、それだと情景を短く表わす俳句の考えから外れるのではないかという疑問も生まれるようです。
海外だと575形式や季語や切れ字にもこだわらず、情景や心象を短くまとればそれで俳句と考える人も多いようです。
日本の自由律俳句に近いのでしょうか。




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コメント

んじゃ俳句でもなんでもなしにポエムでも詠んでりゃいいだろ

そもそも日本語以外の言語で俳句や川柳、短歌を詠むこと自体が間違っているわけで
日本語だからできる文化、文学だという事を知るべき
五七五を無視したらただの散文詩でしかない

季語がないヤツは川柳だよね

三行詩だって決まった韻を踏む定型詩だろうに。それと同じだとなぜ分からないんだか。

高木東六翁がなつかしい。

>1音1語だと英語で詠むとほぼ単語の羅列
とはいうものの、
「古池や蛙飛び込む水の音」は
「古池」「蛙」「飛び込む」「水」「音」という羅列なんだよね。
同じ単語を補間して、いかに情景深く美しく見せるかですな。

縛りがあるからスタイリッシュにまとまるんだろうに…

誰も自由律俳句に触れないのは外人だからか?学校で習った記憶あるけど。

って思ってたら最後のまとめにあったね、スマソ

まっすぐな道はどうでもよい
わけいってもわけいってもどうでもよい
うしろ姿はどうでもよい

英語の俳句はもう別ものだと思ってたけど、標語みたいな雰囲気が出てて良いね

理解出来ないのに日本の俳句こだわる意味が判らん
自由に創作してたらええやん

いや仕方ないでしょう
考える前に疑問が口に出るのはよくあること
親しみの薄い外国文化ならなおさら
それを非難するような言い方はよくないと思うよ

あまり関係ないけど日本の学生が英語苦手なのも
完璧以外は恥、非難・嘲笑されてしかるべきみたいな風潮があるからだと思う
もっと考えなしに疑問を口に出して間違えてもいい雰囲気にしようぜ

ルールの中で楽しみを見つける言葉遊びなのに・・・

日本語と英語じゃそもそもまるっきり言語の成り立ちが違うんだからしょうがないが、
英語の感覚で俳句を理解するなんてムリだよな。
たとえば、英語のWhiteは1音節だけど、日本語のホワイトは4音節だ。
言葉と音の関係からして根本的に違うんだよ。
575だって、この数の音節で文を作ると日本語は実に調子が良く聞こえるってことから自然に出来たルールなわけで。

聖書にこだわって(?)捕鯨に難癖つける欧米人が、寝言を言うなよ。

もっと言葉の流麗さを強調するべきじゃないかと思うけどなー。それでなかったら日本語を使って句を詠むべきだろ

言語からして違うんだし、気持ちの良いリズムで作ればいいんじゃないかと思うけど。

とはいえ、長い年月の間詩を作る人が575の形式に従って詠んできたからこそ、1000年以上前の詩もつい最近作られたのと同じように違和感なく詠めるんだよね。
古い文語は普通の人にはほとんど理解出来ないけど、和歌や俳句はそうでもない。

米13
学生のころは流暢に英語をしゃべると教師から怒られたもんだけど。発音の練習しても得点に結びつかないだろ。そんな暇があるなら、単語書き取りして、長い単語を正確に綴れるようにしろと。AppleがApleになっただけで、その問題は不正解。5点差がつく。その5点の間に競争相手が何人はいるか考えろというわけ。

日本でも正岡子規や角川春樹が俳句革新運動をやってるし
既存のルールに疑問を呈し、変わっていくのも俳句
疑問や議論は大いに歓迎よ

英語と日本語じゃずいぶん感覚が違うんだね
日本語じゃ575で読まないと俳句の意味ないよね
ただのポエムになっちゃう

日本人から見ると俳句ではないよね。でも、楽しんでるならいいんだけどね。

そうだなぁ……外人にも分かりやすく喩えるなら
「楽器を弾くのに書いてある楽譜の音符通りに拘って弾く必要はあるの?」と思うかい?
とでも言えば分かってくれるだろうか

なら短歌を詠めばよろし

嫌なら好きにすりゃいい、但し575というシンプルな枷を外したら
もはやそれは定型俳句ではく、明確なルールなしの無法地帯になるため
収拾はつかないんで各人勝手にやれということになる。
日本でも自由律を唱える人が徒党を組んでもう100年にもなるけれども
殆どの人は未だにその存在すら知らないレベルであって
幅広い支持を得るにはほど遠い状態だし、今後も望めそうにない。
文化における最低限のルールや枠組みというものの重要さがよくわかる話だわな。

日本語だと韻律楽しめるが、英語だと短い詩をつくるパズルになってる感じなのか

575というのはあくまでも575調のリズムがいいからなんだよな
大事なのはリズム
だから6になっても8になってもリズムが崩れなければ別に構わない
最近は575に文字数を当てはめるパズルのようなものと捉えてしまう子供が多いそうだが

日本語で詩句を聞き、読み詠う事の出来る幸せ。
こう言ったのは谷川俊太郎、同じような事を三島や夏目芥川子規なんかも言っているが、日本語ネイティブ以外のこの手の議論を聞くと、その意味が染々とわかる。

日本語だから五七五に意味があるよね
英語だとはっきり言ってほとんど意味ないのでは

17文字に省略して誰にでもわかる句を詠むのが醍醐味なのに

ルール無用だとあまりにも味気ないので
英語なら英語の響きの良いリズムにするとかの改良が必要なんちゃうか

俳句は英語や他の外国語だと短い三行詩、みたいな扱いなんだっけ?

個人的には俳句独特の音のリズムと季節感は外国語にしても外して欲しくはないなぁ

575だけでなく季語も同じ
なぜ季語を入れるかというと俳句にとって季節の情感を伝えることが大事だから
季語を入れて完成させるパズルじゃない
よく、ブランコも季語だからこれでOK、みたいな捉え方をしてしまう人がいるが、
季語が入っていても季節が伝わらなければ入れた意味が無い

575は日本語だからこそできたものだからな。
世界的に見ても音が一つ一つハッキリしてるから為せることだし。

他言語でやったらどうやっても本来の俳句とはズレるんだし
その上575という基本的ルールに近づける努力すら厭うならなぜ俳句という名前に拘る?
※1の言うとおり

我々が世界の料理を魔改造するように
あるいは浮世絵が絵画に取り入れられ印象派が誕生したように
俳句もまた異なる文化に触れて一つの進化をたどっているわけか

起源である俳句に対するリスペクトを忘れず
それでいて自分たちの文化をより豊かにする方へ
文化の広がりが目に見えた素敵な事例だね

楽しく読ませていただきました

俺らだって漢詩読み下し文で読んだりするんだから、細かい形式に拘るより趣旨から外れない程度に遊ぶのは間違いじゃないと思うなあ。

自由律俳句として種田山頭火なんかが中心になって五七五にこだわらない形ってのが日本では一定の支持を得た。
同じことが外国の俳句においても起こらない&起こってはいけないという理由はない。
模索することから新しい表現は始まるのだからこういう疑問を持つ外人さんが出てきてくれたのは素晴らしいことだと思う。
旗持ち役と成りうる才能の持ち主が現れれば英語俳句においても新しい潮流が生まれるかも・・・

高浜虚子派 → 従来の575俳句
河東碧梧桐派 → 自由律俳句
ロシアなどの外国人俳人 → 三行詩

シブラルを意識して発音してもなんか違うよな
やっぱり英語の練習が足らんのだろうか

ファンロンパイが俳句集をだしたって聞いたときは笑った

日本語の形式として、五音と七音の組み合わせが一番きれいに聞こえるからなー
ヒットした歌謡曲に五七調や七五調が多様されてたりするのも耳障りがいいからなんだろうね

宗教は頑なに守るくせに・・・・・・w

※19
君は何を言っとるんだ

ぱっと見るとちゃんとシブラルで切ってる奴もいれば
単語で575の奴もいるな三行詩だな

母音子音セットで使う言葉なら、出来るんじゃね?

北欧とかにあったような

種田山頭火とかどう評価されてるんだろ?

んまぁ、こういう疑問を整理解消していく過程で成熟してぃくんと違うか、文化は。
外人のソレが、やがて日本のソレとはナリを変えても。
いつかソレがコレに影響を与えることもあるだろうかと思うと、それは楽しいことじゃないの。
外人さんには自分らで答えをだしてほしいもんだな、ここまできたらもう、日本のあとを追わなくたっていいのだろ。


そもそもそんなの日本人は俳句と思ってないからww

日本語は言いまわしや比喩、省略によってうまく575に納められるから
出来たルールで、他の言語で出来ないならすべきじゃない。
したいのなら、同じようなルールでの言葉遊びとしてルールかすればいいけど
それは俳句じゃない。

型の美しさ、その短く窮屈な型にはめる工夫の中からこそ生まれる物もあると思うけど。
でも他言語なら難しいよね。
自分たちの言語に合った形を作ればいい。
ただ固定観念から解き放たれて自由に…云々てのが行き過ぎると、単に野放しになるだけって場合もありそうだけどさ。

575のルールに従って
上手く言葉をはめ込むのが難しくて
はめ込むからこそ俳句なんであって
多少の字余り字足らずは許容範囲だけど
それを無視して作ったらただのポエムだと思うけど。。。
流れる様な響きが無くって面白みが無いと思うけど。。。

無知で言ってるんではなくて、理解して敬意を持った上で
日本語ならいいけど、英語で詠むのなら別のやり方あるんじゃね?
って言ってるんだから、キレるとこじゃないだろ
漢詩だって、読み下したら意味ねーだろって言われるかもだが
かなりの部分は伝わってる(はず)だし、こういう議論は大事だと思うけど

限られたルールの中でいかに表現出来るかなのに
それを否定するなら別に俳句である必要はないよね。
サッカー観て「ドリブルより手で持って走った方が都合がいい」って言ってるようなもん。

>一応言っておくと、私の批判はレジナルド・ブライスに向けられたものだ。

プライス自身はあくまで「日本語の俳句を欧米に紹介した」のであって、例えば自分が英語でHAIKUを詠もうとしたわけではないから、この文脈で「批判」を向けるのは当たらないのでは。

外国の詩だって日本語に翻訳したら音もリズムも崩れて本来の価値がなくなるし、
けっきょく詩は言語ありきの芸術なのでその言語に合わせたものを作ればいいんだよ。
俳句の形式が英語に合わないなら無理に俳句を作る必要なんてないし、
それでも俳句が作りたいなら俳句の五七五リズムを英語で表現する方法を考えればいい。
五七五の単語数にするとか無意味としか思えないわ。

575に入らなくても間違いでは無いね。
字あまり、字足らずなだけで・・・
聞き慣れてる日本人からしたら聞いた感じがしっくり来ないがね。

ソネットが14行である必要はあるの、って考える日本人はいないと思うんだ
これも文化の違いかな?

多分、英語なら15(3)1とか25(3)2の方が日本語に近い
基本は単語であるべきだと思うわ

英語でやってる時点で俳句じゃないんだから好きにやればいいがな
ただ
>普通、英語の575形式で詠まれた俳句は、伝統的な575形式で詠まれた日本語の俳句よりも多くの情報を持っている。
みたいな浅い理解で形式をいじり回したらポエムにすらなってないガラクタになるだろうね

和歌の57577 は、ヲシテによると、天の節で合計31 つまり基本的に1ヶ月です。
そして厄払いのような和歌は32で、間に悪が入らないようにする魔よけの数。
那智の火祭りの扇の数も32だとか。
そういう意味で5と7が大事なんじゃないかと。
ひらがなには1つでいろいろな意味を含み、さらに組み合わせでいろいろな意味を表せて感性が磨かれるような気もするね。

むしろ日本語勉強した上で俳句やれよw

>和歌の57577 は、ヲシテによると、天の節で合計31 つまり基本的に1ヶ月です。


バーカw
旧暦のひと月は31日なんかじゃねーわw
月なんてのはそもそも文字通り月齢だ
もっともらしい事を鵜呑みにするバカ、少しは自分の頭で考えろ

”うた”だからな
なんか複雑に考えてるけど一番分かりやすい解釈が出ないなこいつら
単純に「このリズムが最も美しいから」だろう
これを詠うのであって、単に文字を読み上げるだけじゃないから

自由律って有名なのは山頭火くらいで一定数支持を得たといってもかなりマイノリティだぞ。当時も現代も。
しかもその山頭火の歌も山頭火の名前が1人歩きしてるだけで大半はなんの趣もない駄句ばかりだと思うのだが。
俳句をやりたい人に自由律はオススメしないな。
ただの短い感想文を書きたいのなら俳句にこだわる理由はないわけだし、それこそ自由詩を作ればいい。

ハンプティーダンプティーでいいと思う。
音節そろえるより、韻を踏む方が英語にはあってるし、聞こえもいい。

文化なんて自国に合わせてローカライズするのが普通でしょ
日本の仏教だって独特だし
 
つまり俳句とhaikuは既に別ものなんだから
自分達の言語に合わせてルールを定義して勝手に楽しめばいいよ

日本語でも俳句を作れるレベルの人達に
english haiku 的なルールを作ってもらえば良いんじゃなかろうか。
「これに則って文を作れるなら、あとは日本語さえ学べば日本式俳句も作れるよ☆」
みたいなノリで。 もちろん詠みたいものを詠めばいいんだけど、基準が必要なら。

外国語の俳句って・・・ただの詩にしか見えない。
決められた数の言葉で、いかにいい言葉を作るかが俳句。
字余りは別に構わないと思うが、俳句界が字余りだらけになっちゃうと、575の音の美しさへのこだわりがなくなっちゃって、魅力が落ち込むと思う。

古墳時代の和歌なんて見ると文字通り歌だったんじゃないかと思うわ
やっぱリズムは大事にして欲しい

中国のとある少数民族が、七五調で詩を作って歌ってるのテレビで見たけど、和歌も本来はこうだったんじゃないかと思ったわ

自由律でも良いけど、いかに短く納めるかという俳句の美学は必要だと思う
英語の音節で575って最早ただのポエムでは?

「古池や〜」なんかの日本語の句を何パターンかメロディーとして書き起こして、そこに英語で歌詞をつける。
そんなやり方どうでしょうか?
私は英語ができないのでネイティブの人が詠んで気持ちがいいかわかりませんけど。
ラップみたいになりそう。

縛りがあることで美しいものができるという不思議が俳句にはあるけど
山頭火みたいな自由律の人もいるし、英語ならではのHAIKUが出来上がるのも
それはそれで新しい文化の誕生が感じられて面白いんじゃないかな?

俳句だから575にしないといけないというより、575だから俳句なんだろ?
拘らずにやるのは良いけど、それは別の物になるだけじゃん。
それが悪いとか言ってるわけじゃなくて俳句ではないよね。

それなら俳句に拘る事をやめれば良いのに。

俳句のよさって言葉と音とリズムの調和だろ
英語の575って音が多すぎてただの詩じゃん
英語は単語じゃなく音節で区切ってカウントするにしたって音が多すぎる

そもそも論理的な言語である英語は俳句に向いてないと思うんだけどな。
主語とか入りまくってたら説明がましくて情緒が無いように感じるんだが。
俳句って言ってみれば行間を楽しむものじゃん。

リメリックでも作ればよか。

言葉遊びのルールを外して面白いのか?
和歌から始まってる1000年以上続くルールなんだよ

とんがらし
はねをつけたら!
あかとんぼ

ずうとるびだがまじめに禅と
いやZENと信じる者もいる
書いた本人(バリントン・J・ベイリー「禅銃〈ゼン・ガン〉」)も冗談のつもりで書いたはずなのだが
君らは勝手にするが良いとしか言えんな、そもすべての日本文芸は日本語にしか許されていないのだ、他の言語で何を作ろうと本物になると言う事は絶対に無い、またそれは単なる事実であってそれに対していかなる感情も必要ではない

英語だと343音節くらいでちょうど日本語の575と同じくらいのリズムなんじゃないかなあ、
という気がする
英語の575音節で作れる文章は長いし情報が多くなりすぎる

コメ欄見るとよく理解してない人がいるみたいだけど、英語の17音節って日本語の17音と比べるとめちゃめちゃ長いぞ。
「古池や」を英語に訳すとだいたい10音節程度になるから倍程度の文章になる。
途中に出てきてる「危険な街路だ」は英語だと17音節だけど日本語訳は32文字でやっぱり倍近い。
縛りが重要というならもっと短くしないと。

あと「とりあえず文節数を減らすべし」は素晴らしい訳だと思った。管理人GJ。

こんな論議されるほど俳句人口っているんだと驚いた。
将来的にはJUDOと同じように欧米ルールを本家日本に押し付けてきて、
日本の575はおかしいとか言い出しそうだなw

それが文化だ。模倣ではなく海外の自分たちの文化と融合させて新しい文化を生み出していってくれ。

英語の場合は音節的に2-1-2等に変えて自国のリズムに合わせれば良いんじゃに花と思う。
俳句は唄でもある。リズムが崩れれば感性も崩れ、俳句とはほど遠いものになってしまうと個人的には思うよ。
海外俳句を和訳するときに五七五になれば良いんじゃないかな?
逆にその国の言葉で美しくなければ誰もそれに美を覚えないから廃れてしまうだろうな。
海外で俳句が広がることを期待していますよ。

音感がいいからこその日本語の575なのに
それが崩れる英語で575にこだわるのは本末転倒だと思うわ

歌だからなぁ非表音言語とは相容れないとこあるよな

外人はポエムでも詠んでろよ
首つっこんでくるな
日本語だからこそ俳句になるのであって、多言語だとただのポエムじゃないのか?
頭悪すぎだろ

あれって音の響きも楽しむものだから…
575じゃないとすわり悪いし…

そっちにはそっちの詩?の流儀があるんじゃないの

和歌57577や俳句575の七五調というのは、まだ文字のない時代の語り部による伝承方の名残だそうです。
試しにまだ字の読めない幼児に百人一首の絵柄を見せながら歌を読み聞かせてあげたら、凄い勢いで覚えるそうで、絵本でも同じことがおこるのですが、やはり七五調が覚えやすいようです。

>伝統的に縦書きで書かれ、
>読む事が心地よい5文字(日本人にはそれぞれの文字が区切られて聞こえる)7文字、5文字を
>5音節、7音節、5音節にしようというのがそもそも間違いなんだと常々思ってるよ。
その通り!
他の人はなぜ「575=日本語のリズム」ってところに考えが及ばないんだ?
英語なら英語のリズム出やりゃいいだろう。

英語だったら「タンタ・タンタ・ターンタン」のリズムがいいと思う。
それをHAIKUってことにして、TANKAは
「タンタ・タンタ・ターンタン、
 タンタ・タンタ・ターンタン、
 タンタ・タンタ・ターンタン、タン・タン・タン」とかさ。

フットボールでも両手使ったっていいじゃんいいじゃん~

日本語訳された外国の文化も魔改造されてる訳で。。。
本気でその文化を愛でたいなら、その文化の言葉を憶えないとダメっすな。。
ゆるーく楽しみたいなら適当でいいんじゃないのかなwと思うけど。

海外で俳句!?
そっちのほうがびっくり。
英語なのに?

…まぁ、サッカーってなんで手を使っちゃいけないの?的な疑問ではあるよな

日本人だと単純に七五調のリズムの良さをはっきりと実感できるから「なぜ?」なんて思わないよね
そう思うってことは英語で七五調をやるのは合ってないってことじゃないのかな

そもそも日本語以外のものを俳句と呼ぶな

まずなぜ俳句が外国語圏に受け入れられたかを考えようよ。
5・7・5の短い中だからこそ広がるものがあるということをちゃんと理解した人がいるからだろ?

さらにこの質問は、なぜ5・7・5なのかという疑問だろう。
英語の語感的には、日本の5・7・5そのままが合わないことは当然予想されることだから。

でも日本人でもなぜ5・7・5(4・6・4ではなく)なのかにちゃんと答えられる人は少ないと思う。

それを俳句自体を否定した質問と捉えるのはなんか違う感じがするんだけど。

うーん・・・英語俳句は別物だとは思ってたが、これ読むと詩歌としての根本がダメになって移植されてるぽいわw
普及を先行しすぎたのも原因だと思うが、5・7・5の定型律があるがゆえに句またぎ句わたり句つなぎ字足らず字余りって言った破調変則律も成立してて、それもまた技法として活用されてる程度の事は共通の基本認識として教えといてもらわないと
自由律でなくても、ほとんど破調って作風の人もいるんだよね

て、言うか、考えてみたら、英字だけの表現だと俳句独自で肝心要のキモである配合がたぶん同音異語みたいな極端に限られた範囲でしか成立しない
外人コメント見ても、配合なんて概念は初手から無いみたいだしw
配合法があるからこそ俳句は極端な詩的情報圧縮が可能な詩形になってるわけで、そこが欠けちゃうと単に、5・7・5の音節で短い文章つくりましょう、に限りなく近づいていっちゃって、あんまり詩とは関係なくなってくような
とりあえず、俳句も短歌も、そういうできるだけ省いて短い詩つくりました的なものとはぜんぜん違うのよね
そこが全く伝わって無さそうなのは、移植としてどうなのかと

フィボナッチ俳句は或る意味おもしろいが、それでなにをどうする気なのかw

ラップって韻踏む必要あるの?って言ってるのと同じだよ…

そういうルールの競技なんだから黙ってやれよ
「サッカーって何で手を使ったらだめなの?」
「バスケって持ったまま走ったほうが効率的やん」
といってるのと一緒。

575を否定したら俳句じゃないわなw
そもそも日本語に特化した独自文化なんだから多言語(英語)に置き換えて疑問を呈してもしょうが無いのに
そこが理解できないなら普通にショートポエムとして詠めばいい

お前らのは誌だろ!
俳句にかこつけて、結局差別したいだけだろ!!

言いたいことを削って削って削りまくり、季語という制限を加えるからこそ俳句という詩足りうる。
種田山頭火みたいな真似は、名人でないと許されない。

※2 に完全同意

「俳句」は日本語以外じゃ成立しないっしょ
他の言語じゃせいぜい「俳句をイメージした短い詩」にしかならんよ
川柳しかり短歌しかり
でもそれと優劣とはまったく別物だよってことね

※100
いや、※97で書いたように、現代俳句では5・7・5に収めることはそれほど重要じゃないのよw
そういう重視すべき力点が誤まって伝わってるらしいとこが大問題なわけでww

配合の概念がわかんないと何言ってるかわかんないと思うんで※97を補足しとくと、みんなダブルミーニングって聞いたことあるでしょ
或る単語、或る文章がまったく異なるふたつの意味に解釈できる場合を指すんだけど、俳句や短歌の場合は日本語に可能なあらゆる手段を駆使してダブルどころか三重四重にイメージや意味を折り込んでいくことが可能になってるの
俳句の場合はそれが配合法へ集約されてるんだけど、そういうことができるから詩として成立してるわけ

その詩として肝心要のところをどうやって英語で実現するかって言う最重要な課題を、どうもはしょって移植した臭いところに激しく弱りもの感が漂ってるのねw

英語短歌って言うのがあるのかどうか、あったらどうなってんのか気にかかるところ

やはり、情緒的思考と論理的思考の違いかな?
ただ並べるのではなく、ルールの中で、韻やその情景をいかに上手く描き出すかが俳句だと思うのだが。
海外には、似たようなものってないのだろうか?

音数に関しては外国語で575に合わせるのは難しいし
むりくりに合わせたところで、日本語の俳句のリズムにはならない。
その辺は柔軟に、その言語で心地よい音数で詠めばいい。
けれども、季語や切れといった俳句の基本概念はきちんと押さえてほしい。
最初から形式なんてどうでもいいというのは、破調でも自由でもなく
単なるハチャメチャな詩でしかないから。

※105
いいや
読まない人にはわかんないかもだけど、日本の俳句も極めて論理的にできあがってるものよw
一方に短歌があるもんで、俳句の方は不必要に論理化されてるきらいがあるくらい
たぶんそういうのとは違うところで勘違いされてるぽい

定型詩自体は欧米にもあるけどねー
あれは構造的に、短歌や俳句よりも日本で言うと俗謡に近いわ
成立の過程も流しの詩人がやってたことから発展したんで、もともとがそういうもんだし

すげえ
普通の日本人ではしないような会話が海外で繰り広げられとるでえ・・・

こう書くと叩かれそうだが、外国語で一番日本の俳句に近いことが出来る言語は朝鮮語だろうね

季語なんか、わたしは無季でやっとりますって宣言しちゃえばいいだけのことで、そこらへんは別にお好きにやってもらっていいんだけどねw

まーねー、漢字、かな、カタカナの使い分けと配置みたいな日本の定型詩技法の基本が英語移植すると80%以上は欠落しちゃうわけで、俳句や短歌は日本語覚えて日本語でやんないとそもそも翻訳も無理ぽいわな・・・
日本語って、視覚的な表現力と意味の圧縮率ってところではおそらく世界のどの言語も対抗できない最強言語で、覚えたらそれなりにベンリと思うし外国人のみなさんはがんばってくださいってことでw

言語が違うからしゃーないよね
短くてリズムが良く季節の情景を盛り込んだ三行詩ぐらいにしておくしかないんじゃ

シラブル数制限くらいあるもんだとばかり思ってたが

米109

叩きはしないが、あんたの考えはまったく間違いw
ハングルしかない韓国語じゃ、英語と50歩100歩よww

たぶん中国語のほうが可能性はある
漢詩的な表現手法は俳句や短歌にも導入されてて、もともと親和性もある

もう>1で結論出てた。
ほんと、ポエムか小説読んでろって思うわ。
こうやって日本の文化に懐疑的な連中が移民政策で流入したらどんどん自分たちの都合の良いように
変えまくると思うわ。

ぼくニート
冬になったら
ホームレス

ちょっと面白いね。
さすがに英語圏でたった17音で詩を作るのは不可能だから
向こうでは5節・7節・5節の形にする事でhaikuって事にしてるのね。
こりゃ理解できないでしょ。

無数の言葉からその場面にあった言葉を限られた字数で表現するのが目的なのに・・
表現力、観察力、想像力、洞察力、色々鍛えられるよ。小学校の時授業でやって楽しかった。
短いからゲーム感覚でやれるんだよね。
答えもないから適当に作っても先生に怒られないしw

(こいつら何なの?)
と思ってたけど、英語で俳句を詠む場合の考察か
なら納得
>1とか>>114とかは文脈読めない子かな

一神教にこだわる必要あるの?って聞いたらなんて言うかなw

ここのコメント読んでると、一般的日本人の俳句への理解も外国人とどっこいではないかと言う気もしてきたな・・・
小中で教える俳句で認識がストップしてる人は、あんまりこういう外人俳句へ文句も言えんよw

日本語のモーラを基準にした575なんだから、単にシラブルに置き換えても……。
日本にも自由律俳句とかあるみたいだけど、
そもそも制約された音節数という小宇宙に美を込める芸術なんだからさ。
シラブルで575が綺麗に響かないから、なくしちゃえってのは筋が違うと思うよ。
音節数の縛りは残して、各言語で美しく響く音節数を考えてみたらどうかな。
あと、管理人さんの訳「とりあえず/音節数を/減らすべし」が素晴らしい!

センスあるね

>>120

120みたいなのが一番なにもわかちゃぁいねぇよ。

日本語が完全に理解できてない人たちの俳句の話だなこれ
多少なりとも本物の日本語俳句の知識があれば575じゃない俳句もあるし
完全にそれた物は自由詩として日本語でも存在しているわけで
575という形式にするから俳句というジャンルになるわけで
海外でもどうしてポエムが韻を踏むのかって要ったら韻を踏むのがポエムだからでしょ

おれも>>120みたいなのが一番わかってないと思うわ
575以外でも頭でっかちな理屈は確かに捏ねれるよ
でもそれが俳句そうでないかといったら俳句っぽくはない
俳句らしさの定義に575はかなり重要だ。こういうのは理由ではなく伝統。
そこが分かってない

英語なら3・4・3でやるとそれっぽいかも

日本語以外は俳句じゃない、haikuだよねってことで
つーかそこまで疑問に思うんなら
もう俳句自体に拘らなければいいだろw
ポエムでいいと思うんだ(´・ω・`)

金木犀みたいに6音でも5として違和感のないものもある
一音一文字じゃなくても対応できると思うけどね
漢字圏じゃないから単語自体が長いから難しいか。その辺なんだろな。

ここ書き込みがコメ欄の上にあるからコメント読まずに書き込めちゃうのはちょっと勿体無いなあ
俳句の技法的な事書いてる人もいて面白かった

>115
>ぼくニート
>冬になったら
>ホームレス
(´;ω;`)がんがれ

俳句という他国の文化を、自分達(英語圏)に合わせて改造していく
今はその過程にあるんだろうな
真面目に取り組む人達がいるんだから、どっかでブレイクスルーが起きて、
面白いものが生まれるかもしんないよ

英語と日本語の違いもあるからな
日本語は類義語も多いし長いと縮めて新しい言葉が出来ることもある

俳句の5,7,5は縛りであると同時に凝縮したものが詰め込まれてるんじゃないかな

別に彼らも日本人に認めてもらうためにやってるわけでも無いだろうに、なんで上から目線であれこれ言う人が出てくるんだろうね・・・

短歌や俳句は読むものではなく詠むものだからね。
声に出して節を付けて詠む事を前提とした詩なのだから
五七五と言うリズムが重要になる訳で。

「分け入っても分け入っても深い山」
みたいな感じでいいじゃん。自由律俳句だっけ?

制限をなくして、何でそれを俳句といおうとこだわるのか逆に聞きたいわ。

もともと俳句を外国語で詠もうと思った人は、
どう定義づけしたのかなぁ・・・。
多分その人は俳句をよく知ってる人だと思うけど・・・。

575にこだわるから俳句であって、
そうでないものは日本人としては俳句ではないし、
外国語でだらだら長ったらしい詩を俳句だといわれて、
すごく違和感はあるけど、
外国の、詩好きな人が、新しい詩の形を見つけて、
制限のある中で情景を詠んでいくと言う姿勢は、それはそれでいいと思う。

日本人は制限があると、その中で精一杯のことをしようとする、
制限があったほうがいい仕事をする、と、どこかで読んだけど、
そうかもしれないね~。

まあ、575があるから自由律もあるってことだよな。どんな分野でも同じだろうが。
じゃないと、てふてふがどこへ行こうと入れ物が無かろうと、だから何だよ、だもの。

この記事読んで思ったけど

英語圏では3.5.3の形式を俳句とするのがいいんじゃないだろうか
それぐらいで日本の俳句と同じ情報量になる。
俳句って情報量をそぎ落としたゆえに情景や感傷が濃く浮かび上がる美学だと思うんだ。

アメリカ英語は抑揚がありすぎて俳句にしっくり来ないが
イギリス英語は平坦なので、耳で聞いててなぜ英語で俳句が可能かが分かる

なんていうか…根本的に俳句じゃないよね?
やっぱり日本語じゃなきゃ無理なのかね
英語の韻とか漢詩とかも、やっぱりその言葉じゃないとダメだし
つーか訳以外で、日本語で漢詩書いたり、外国の詩を作る馬鹿いないしな
なんで日本語を学ぼうっていう発想にならないかが疑問

日本の俳句って、季語となる季節を比喩や略語を用いて如何に575の中に収めるかであって、
575の中に季節を表現できる単語を並べていくパズルではないんだよね。
575のルール自体、読んだ時の音の響きやリズム、限られたルールの中でうたを作る技巧を楽しむ事まで含めて考えた結果、最善として導き出された回答なんだと思うし。
“これらを理解出来る人間”が、“日本語”を用いて作る事にあらゆる面で特化しているから、これをそのままに他言語でやるというのは無理かと。

他言語でやるのなら、俳句の何らかを無理ない範囲で取り入れつつも、その言語に合った新しいジャンルを作って、既存の俳句とは区別した方がいいと思う。

5・7・5って言っても、根底にあるリズムは三・三・七拍子なんだよな
日本人なら読むときに無意識に三・三・七拍子になってる
広める人は5音節だの7音節だの言う前にリズムを教えれば話が早かったのに。

不思議の国のアリス読んだ時に訳のわからない歌がたくさん出てきてうんざりしたけど、これは英語で読めばおもしろさがわかる言葉遊びになってんだろうなあと思った
音遊びは生まれた国の言葉じゃないと表現できないものなんだよ

※141
三三七拍子だとは思わないけど、リズムで教えるってのはいい考えだね

いや、季語がない時点で俳句じゃないからな。
たしかシェイクスピア時代の短歌だったかがあるんだからそれ使えばいいのに。

そういうルールだからとしか言いようが無い

サッカーで手を使っちゃ駄目なの? バスケで歩いちゃ駄目なの?
ボクシングで蹴っちゃ駄目なの? と言ってるようなもの

もちろん手を使ったり歩いたりできるルールを突き詰めていったり
蹴りもできるボクシングを考案していくのも面白いかもしれないが
それは例えばハンドボールやキックボクシングになって行くのであって
サッカーやボクシングとはもはや違うもの

俳句のルールとは一線を画した事がしたいなら
「俳句ではないその何か」をすれば良いだけ

五七五の制限された枠の中に美しさがある。
それが出来ないならやるべきでないよね。
何でこんな議論してるかも分からないほどだよ、日本人の自分からしたら。
外国人がこのようなことを言ってる事にちょっと驚いた。

>>143
最初の5節で三拍、次の7・5で七拍じゃね?
日本人ならどう読んでも無意識にそうなるはずだが

575と季語はルール上の大前提
一字程度の字足らず字余りは認められるが、あくまで575
季語がなければそれは川柳
この二つはスポーツルールで言えば1番最初にくる揺るがない絶対な縛りであり、
それを否定することはそのスポーツ自体を否定することと同義
野球やサッカーで参加人数を勝手に増減したら話にならんでしょ
拘る拘らないではなく議論以前に問題にすべきことではない

気になったんで575についてggってみて、更にそこから音数律やら拍やらを調べてちょっとだけ偉くなった気分にw
575(77)というリズムがなんとなくいいのは日本語勉強すれば誰でも理解できるけど、何故それがいいのかと考えたりはしない
英語風の俳句にリズム感がないというなら、頭韻を揃えて作るとか(かなり難易度高そうだけど)すれば、ラップみたいでそれはそれでいいんじゃないかと

形に拘らないなら俳句にそもそも拘らなければいいんじゃないかw
誰に頼まれてるわけでもないんだし

よく日本語のラップはカスっていうじゃん
あれとおんなじ様なものでしょ

標語やスローガン作りましょうっていって、無意識に五七五になる恐ろしさ…
っていうか日本語の本質なんだと思う

 

575に疑問を持つ奴がなんで俳句にこだわるんだよw
好きな字数で好きなだけ作文書いてろよ

575で季語を含む詩を俳句と言う
それが嫌なら、やめりゃいいだろ

拘るっていうよりそういう定義の物だろ

リズム的に、英語の音節だと343くらいが日本の575に近い気がする。

意味があるかどうかとか、昔のルールに囚われ過ぎてるとか言ってたら、文化的な儀式や作法、型すらほとんど消えてくじゃんw

意訳だと言葉遊びの部分が伝わりにくいんだろうけど、英語の詩だって韻を踏む音の遊びをしてるし。
クラシック音楽だって共通した形式が主流に居座り、その価値をきちんと認めて勉強した後に新しい形に挑戦する人たちがいたんだし。

最初から意味ないと決めてかかるならば、もはや“俳句”に拘る必要はないでしょ

全く言いたいことが分からん
俳句ってそもそも季語を取り入れて、短い文章で、空間を表現するものだろ。

朝目が覚めて、顔を洗おうと井戸に行ったところ、朝顔が成長して、つるべにまきついてるので、隣の家に水をもらいに行きました。

これじゃ、詩でも何でもないわww
5音節7音節5音節、これに拘ると言うよりも、この狭い空間にいかに季節を表現するか、これが一番面白いところでしょwww

朝顔に つるべとられて もらい水。

翻訳は音節を気にしてないって日本語でも意味を説明するときは音節は気にしてないわw
逆に言うと、言葉を選び、音節を少なくして、その言葉の意味以上のことを語らせる、それが俳句の魅力だろ。

五七五を音節数や字数として捉えるのでなくリズムとして捉え、それに乗るように歌詞を書くつもりで書けばいいんじゃないのかな。その結果詰め込みすぎて窮屈になったりしても、それはそれでアリだと思う。

すずめのこ
そこのけそこのけ
おうまがとおる

587
一茶すげぇよなぁ

これに不満を感じるのに何故俳句を読むのかわからん
普通にポエムでもつづれば良いのに
逆になんで俳句に拘るんだろ

何故575なのかって言うのは
方程式のXとYは何故AとBとかじゃダメなのか
って言うのと同じような疑問

少ない音で表現する限界と言葉遊びだと言うのを
理解してないんだな

リズムの問題なんだがな
ソネット考をえれば、七五調の話もわかりそうなのに

海を越え
俳句の心
響き合う

形式は違えど、伝えたい思いをシンプルな文にまとめようという心意気は伝わっているようで。

日本語は基本的に2文字でワンセットになっているため、本来は
3・4・3の音節にするべきだと思うんだよね。

ふる・いけ・や
か・わず・とび・こむ
いけ・の・おと

これは337拍子の調子に似ているんだけど、最後に4・3(=7)の組み合わせが終を作る。
575という数字じゃなくて読んだときのリズムに合わせて欲しいところ。

自由俳句もいいと思うけど、記事内にある俳句はどれも長くてダサすぎるね。
音節とか季語とか言う前に、情景を自分の感想で表現したり、内心を表現しちゃいけないってほうを徹底すべきじゃね?

スポーツと同じで制約・ルールあってこそ制限された中でどう行動・ひらめくかが問われる。
もちろん11人サッカーやバスケットの派生、フットサルや3on3バスケがあるように俳句は575、短歌は57577。
言語の音数の違いも多いだろうがやっぱり日本語独自のものだからね。
派生で英語なりなんなり作っても良いだろうけど。

字あまりってのもあるし
別に普通に散文詩がやりたかったらそれでも良いし

俳句自体を保守的といわれてもなぁ…

100M走で距離が足りないのなら200M走でもマラソンでもやれば良いのではと
フリーランニングだって構わないし
チェスが物足りなかったら将棋やれば良いし囲碁やれば良いし

寿司をアメリカンロールにしても良いし、でも寿司はアメリカンロールとは違うよ
俳句をアメリカンハイクにしても良いが、俳句とは別だよって話、良いとか悪いとかじゃなく違うだけの話
肉じゃがでビーフシチューを糾弾したりはしない
日本人がビーフシチューは醤油が入ってないからオカシイ何て言ってるような物

選択の自由も想像の自由もある筈なのに、侵略癖が見えるというか何と言うか
自分があわないのなら元の文化自体を破壊しようと言うかなんと言うか

まさに
単一民族の日本人 対 移民族欧米
って感じのコメントと元スレですね。

代々伝わってきたルール(儀式)をレスペクトしてこだわる日本人と、
みんながやりやすいようにルールを緩めれば、とりあえずオリジナルを理解しない人でもなんとかにたようなのできるんじゃない?って欧米と。

だから欧米って、特にアメリカって、
先祖代々の祭りや料理、文化が残らなかったのかなーと違う方向で感心しました。

日本語園の物を英語に強引にやってるから、無理があるっていう意見は最もだと思うよ。
そんなことより、書き込みの文盲率の方が深刻だ。

ルールの中で楽しむものなんだから、それを逸してしまっては間違っているのは当然だろ?

必要とか必要ではないとかではなく、そうした制限の中で
発達したのが俳句ってだけの話なんだが
サッカーに”足で蹴るなんて非効率的、手で持って運び、
運搬役がゴールに入れるときは、他のチームメイトが
キーパーを羽交い絞めにしていればいいのに”とか
ケチつけるようなもんで、意味が無い

アーサー・ビナードに解説させてー

そもそも俳句が世界中に広まったのは海外の人でも短い定型詩の中にも何かしら風情や余情を感じる所があったからだと思うんだが違うのかね?
定型詩でないなら俳句である必要が無くなる
自由な形もあるにはあるけど自由律はあくまで亜流俳句で絶対に本流に成ることはないしな

日本語文化を他言語で模倣・理解するのは簡単なことじゃないだろうけど俳句としての根幹だけは是非ともリスペクトして欲しい所

サッカーってなんでボール使うことにこだわる必要あるの?
なんで蹴らなきゃいけないの?持って運べば?
ってくらいトンチンカン
最初っ殻俳句を英語でやろうとすること自体おかしい
英語で575は無理だからい5音節7音節5音節にしようとかもう本末転倒ってレベルじゃない
575の音律に一つの真理をはめ込むから俳句なんであって
制限がなきゃただの詩だし
制限やルールを忌避する素人ほど自己満足の駄作を量産する

四角さに 気持ちを込める 味な奴

BeOS(Haiku)についてのコメントがなかった。
わざわざ画像に選んでくれたのに。

ただの議論で英語での俳句の問題点とか読めて面白かったんだけど
ここの奴がそんなに怒るとは思わなかったな
極論しか言わない奴はちゃんと記事読んでるのかと思う

>>175
おそらく俳句とかよくわからないけど記事にはケチつけたいって人がいるんじゃないかな?
季語はどの単語を指すのかすら分からない若者だらけなのが現代日本だと思う
私の地元では毎年俳句甲子園やってるがこのコメ欄で文句たれてる人は存在すら知らないだろうw
地元が強いが灘高も強いぞ

春や昔 十五万石の 城下かな

そもそも日本語のもの以外は俳句になってないだろ

少ない限られた文字数の中でどれだけの世界を紡ぎ出せるかってとこに
おもしろさや奥深さがあるんですよね、きっと
シンプルでいて籠められる情緒や世界は無限大

俺の英語俳句に対する感想

とぅーろんぐ
でぃどんとりーど
ぱーどんみー

この記事でイラつくのは
「なぜ日本で俳句が575にこだわられるのか」
という観点が完全に抜けてる事
俳句のルールに従わない自作ポエムを、なぜ俳句と呼びたがるのか
ちなみに、種田山頭火なんかあんなもん俳句ではない

気持ちよくラップできるかどうかを基準にしてHAIKUと呼べばいいんじゃない。日本語と英語では声に出して詠む気持ちよさは違うものだし。
英語なんだから575に拘らずに気持ちいいHAIKUのルールを作ればいいよ。
もちろん、季語が入ってなければ許さないよ。

所詮日本の文化だしな
外人が疑問を感じるのも無理ないし、何なら自分らに合うように勝手に変えてもいいだろ
というかわざわざ日本語以外で俳句を詠む必要はない

既存のものを観賞するだけじゃなく、
自分も作って楽しもうとする心意気が良いね
世界中で詩が作られて愛されてる中で、
日本の俳句のワビサビや形式が評価されるのは興味深い

出てきた英語俳句も素敵なのあったな
詩を読んで味わいあうのは楽しいもんだわね

575で季語を入れたのが俳句
575で季語を抜いたのが川柳
奇数語調で流して読むのが狂歌
日本の歌でその他に幾つもある内の一つ
だから俳句詠みたいなら
575に季語を絶対付けろ。

英語なら343がリズム的にはいいんじゃね?

俳句の決まり事から離れてるなら俳句じゃないだろ。
そりゃ単なる歌だろ。

制限された中で韻を踏むから美しいのであって、それはずれたら違うだろうに。
五七五にこだわらないなら、俳句っていうなよ。

日本の俳句には昔からの歴史があり575に拘るのは、その古き歌人達に対してのリスペクトや、同じ土俵での過去の名句に対しての挑戦でもあるから、もう一つの文化なんだと思う。

外国には日本の俳句形式の歴史や文化がある訳ではないので、575に拘る意味自体が解らないのだろう、だからあえて575に縛られる事なく自由に創作しても構わないと思うし、そもそも日本の俳句に外国の人達が拘る必要があるのだろうか?自由に素晴らしいと思う詩を各個人がそれぞれ創ればいいと思う。

人は保守的だと思う
彼らは教えられてきたことに従っているからだ
変化に消極的でもある


これのどこが俳句なの?
俳句じゃなくて、ただの詩でしょ?

さっきから575に拘る奴は音節の話をどう捉えてるんだろうか

そもそも英文で綴ってる時点で俳句でも何でもないんだから自由にやればいい
ただルール無視して面白いのかってことだよな

どう考えても日本語じゃなきゃ無理

短歌でなく俳句なのか
下の句とか言い出したらこいつらどうなっちゃうんだ

どの外国語だって韻や節みたいなものがあるんだから
その言語使ってる人間の感性で作ったものをそのまま同じ感性で受け止めればいいが
それをわざわざ日本語に訳して読み直してればそりゃ違和感感じるわな

日本語じゃなきゃ駄目とかナンセンス極まりない

日本語では無いのだから長くなるなら流派として353とかに減らして楽しめば良い気もするが。

古池や蛙飛び込む水の音

 自動翻訳すると

Ancient pond; a frog leaps in; the sound of the water

 さらに再翻訳すると

古代の池 蛙は中へ飛びます 水の音

 ↑
外人にとって俳句はこんな感じに受け取られるのだろうか
だとしたら面白くもなんともない気がするんだけど

575じゃないと意味ねーだろ、と思ったら、まさかの英語。(笑)
英語で俳句なんか読まなくていいってゆーの!
自分らでポエム作って詩っとけや、ボケが。
俳句は、日本語で詠むから意味があるし、日本語じゃなかったら575にするの無理過ぎるやろ。(笑)
まぁ、もどきだったら、何でもありでいいんじゃない?
あまり意味ないけど…。(+_+)

韻文ってしってっか?

視野の狭い馬鹿ばっかりだなこのコメ欄

日本語じゃなきゃ駄目って言うけど haikuをグーグル翻訳(英語嫌い)で原文を聞くと面白い
ちゃんと俳句してるというか すげえ俳句っぽい  

特に意味はないよねw

この記事が
200コメ突破かよ
驚いた

字余り

俳句はリズム。
日本語ならではの音感があるんだよ

あと、576とか585とか、「字余り」と言って一応ありだよ

字数じゃなくてさ、
時間で区切ったらどうかね


それの意味が分からないんだからファンじゃねーだろ

昔、漫画のネタで見たな
一茶だっけか
Fully care cowards to become miss note.

形式の中に生まれるもの
それがわからないのなら守らなくてもいいと思う

自由律俳句もあるけど、あれは”定型は守るもの”という共通認識があるから成り立つ美学

散文でも書いてろよハゲとしか言いようが無いなw

英語で俳句は難易度あがるのか
でもその分うまく詠めた時の喜びもあるんじゃね

言語が違うんだから、無理に575に合わせる必要は無いと思うが
そこから離れたらもはや俳句では無い気がする
川柳だって575が基本になっているわけだし、日本的な詩にはならないよね

※HAIKUの話です

俳句は庶民の遊びという側面もあるからそのルールをはずすと面白くなくなる。

まあ、英語に限らず外国語ならどんなに自国アレンジやローカライズしても俳句や川柳が関の山。
短歌や長歌は、外国語では絶対に無理。

絶対守らなきゃではないよね。必要があれば字余りもあり得る訳だし、しゃしゅしょなどは一文字扱いの場合もある。韻を踏んでればいいんだし。

日本語以外で俳句というのがそもそも無理矢理すぎる
黙ってポエムでも作ってればよかったんだよ

サッカーで言うなら日本語俳句はフットサルで英語haikuはフットボール
だからルールの中で楽しむもの
↑の方にもあるように変えるなら343くらいがいいかもね

575でどうやって詠むかが面白いのに何言ってんだ外人共は
こういうやつらが柔道をJUDOにしちまったんだ
適当なこと抜かしてんじゃねえぞ毛唐風情が

サッカー選手ってなんで手を使わねーの?w
俺なら手で持ってゴルゴルゴルゴーーーール!だわ!

レベルの話をされましてもねえ。

いい加減全然うまく例えてないサッカーの話は止めろよ
馬鹿にしか見えん

管理人さん、とても面白い記事だったと思います!
日本語の五七五のリズムが体に染み付いている上に英語話者でもない自分からすると、英語の俳句を声に出して読んでみても何が何だかさっぱり分かりませんでした。


限られた短い言葉の中で、

「響きの美しさ」
「広がる世界観・空気」

これを読み手にどう伝えるかを試行錯誤していくのが俳句なのかなって思ってる。
まあ私も小・中学校でしか習ってないけどw

でもやっぱり俳句なら四季折々の香りを感じたい^^

小学校で俳句よむ授業大好きだった!



新緑の
しぶききらめく
滝の沢



秋雨が
染みずに冷えて
人工土


今よんでみたけどやっぱり楽しいなあ。
つたない言葉でもそれっぽくよめていいよねw
明日の学校休んで平安人みたいに詩を嗜んで過ごしたい~!

英語なら英語で、フランス語ならフランス語で気持ちいいと感じるリズムを特定して
それで括って詠めばいいと思うけどな、国ごとに
大事なのは575という数字じゃなくて、美しくて短い同じリズムで詠む事でしょう

久しぶりにOSのHAIKUを見た。
少しづつではあるが、進んでいたことに感動した。

まずこの質問者が言ってるのは
日本の俳句を翻訳しても英語の575の17音節にならないってこと
それを理解してない奴が多すぎる

五七調はあわの節といって、古代神道に由来するもので、
字余りに関しても節句におけるお払い(払い歌)と関係がある。

皇后陛下がお持ちになる扇の枚数なんかとも関係のある事柄だし、
子供が生まれた時のお宮参りなんかにも関係のある事柄。

ただの韻を踏む以上に意味のあることだから、無視してしまうと
何の意味もなくなってしまいます。

言葉遊びなんだけど、リズム遊びでもあるから
12345 1234567 12345を
いわゆる俳句のリズムで言えてれば日本語も英語も良いと思う
・イチニィサン イチニィサンシ イチニィサン
・いんにっさんしっご いんにっさんしっごーろーひ(ち) いんにっさんし
どっちでも聞けるから
音節じゃなくて拍数揃えてほしい

そもそも、575じゃないなら俳句というなよw

俳句と川柳の違いから学ばなきゃだめじゃないの

そもそもシラブル575でさえ英語で俳句を詠むのは大変なのに
日本語により近くモラ575で英語俳句を作るのは至難の業だろうな

音楽は一応ロックだのラップだのにわかれてるのに
詩だってルールが違うなら別物じゃないの

このながーい米欄の中で、興味を持って進んで俳句を詠んだことのあるヤツは1割にも満たないだろう
興味を持って自分から調べたり読んだり聞いたことのあるヤツですら1割に満たないだろう
あ、川柳も別な

漢字以外で漢詩を作れないのと同様に日本語以外で俳句は作れないでしょうね。
それでも外国人が日本語以外で俳句のような詩を作りたいと考えて実際に作っているのは
非常に興味がありました。

外国の人が俳句をどのように捕らえて俳句のどの部分を取り入れて自国語で「俳句」として作成して
いるのかや何故俳句を作成しようとしたのかを知ることで日本人としては当たり前過ぎて気付かなかった
日本の俳句の特徴が少し分かった気がしました。

575だけでも外国語では音や音節やリズムの問題があったり、そもそも俳句としてのお約束ごとが
未だ統一されてない状況で各人各様で勝手に作成してたりするみたいで面白かったですね。
実際はどの程度お約束ごとが統一されているんでしょう?
又、音節数による派閥争いみたいなのがあるのは可笑しかったですね。

日本人だってなぜ俳句は575なのかを明快に答えられる人はいないんじゃないでしょうか。
私は575で読まれたときのリズム感が日本人には気持ち良く感じられるからとかしか答えられません。

ところで以前、英語で作られた俳句を読んだことがありましたが英語に精通してない為か英語の
俳句には日本語の俳句のようなリズムはまったく感じられないばかりか詩というよりも呪文の羅列
のようにしか思えませんでした。今回久し振りに幾つかの英語の俳句を見てみましたがやはり同じ
ように呪文のようでした。

日本の俳句と英語の俳句では何か根本的に違うような気がしました。
日本語の俳句ではどの俳句を読んでも同じリズムを感じられましたが
英語の俳句ではみんな違うリズムのようでした。

管理人さん、今回の記事面白かったです。
みなさんのコメントも面白かったです。
ありがとうございました。

575に拘るのはこだわりを失くしたら跡形もなくなるからじゃないの?
それはもはや俳句じゃない。
そうならない様に575に拘るんじゃないの?
ゲームやパズルみたく組み合わせる楽しさもあるんじゃないのかな?
575に拘ることで難解になり、その制約や難解さのおかげでまた挑戦しよう!という意欲が湧くんだと思う。
それより季語という超難題はどうなっているのですか?

山頭火へのリスペクトって言っときゃ日本の俳人も騙せるで!

そもそも自由だなんだのに捉われる事自体もう制約みたいなものじゃないか
その自由という表現の枠組みは俳句ではなく、そこに拘るのなら詩で満足していればいい
逆に何故俳句に拘るのか甚だ疑問に思うよ

純粋に、日本語以外でやるのは難しいと思うんだがなぁ。
あと季語の概念すっぽり抜けてるよね。これじゃ川柳だよ。

一応、字余り・字足らずという変形もあるから
『厳密に575の形でなければいけない』という決まりでもないしね
韻をきちんと踏んでいれば多少崩していても評価される
要は、雰囲気だよ雰囲気

「とりあえず 音節数を 減らすべし」

元の句も訳も上手いなww

575とか57577って綺麗に聞こえるんだよな
セリフとかでも575の組み合わせとかだと読みやすかったりするし

枠組みがあったほうが作りやすいってだけで、
別に字数にこだわる必要はないよね

形だけ五七七にしたって意味ないし

日本語以外で575に拘る必要はないだろうし
それをよく理解も説明もしないまま広めたバカが悪い

俳句じゃなくてHAIKUなんでしょ

前衛的な俳句は必ずしも七五調じゃないのかもしれないけど、七五調のリズムさえあれば他の言語でも
「ああ、これは俳句だ」って日本人は感じると思う。

韻を踏んだり、行数に縛りを入れたり。
条件を設定することで際だつもののあるでしょう。

俳諧は17文字の中に、季節や風景あるいは心情を盛り込んでいます。日本語でしか表現出来ないものです。

日本語でワルキューレの騎行を歌っても、しまらないでしょう?

いっそのこと英語圏では、詠んだ歌を読む時の秒数でやればいいんじゃね?
あとはリズムさえ狂ってなければいいんじゃない?
それと(その国に沿った)季語ぐらいは選定するとかさ

五・七・五でやりにくいなら 俳句にこだわらずにやりやすい字数に直してやればいいじゃん

俳句改め haiku みたいな名前にして

それに短歌みたいに五・七・五・七・七 みたいなのもあるんだから 気にする必要ないと思うが

今昔に 込める想いは 様々に 歌の心は 型にあらずと


テンポが良ければ多少の字余り、足らずは許されるだろう。

日本語として一番美しくかつ簡潔にまとまるのが575だったわけで、まったく違う言語で575にしたって意味ないでしょ
575そのものに拘るんじゃなくて、自分たちでの言語で一番美しく聞こえる音節数でやればいいんじゃないの

いやいや、575と季語はルールだから。このルールの中で工夫するのが楽しいの。
サッカーで「ボールを足でいじるのはおかしい、手で持ってもいいじゃないか」とか言い出すのと同じだよ。
その時点でサッカーではなくてハンドボールだろw

日本文化に触れてないとあの美しさはわからんだろ

ルールとかいってる奴この記事読んでないか理解してないだろ

この程度のルールですらこんな程度の低い意識で守れないような連中なんだからそりゃ法くらい平気で犯すわな。

節子それ俳句やない

俳句(はいく)とは、五・七・五のモーラから成る日本語の定型詩である。

外国語で俳句らしきものを楽しむのは大いに良いと思うけど
五・七・五に拘らなくなったら、それはもう「俳句」じゃないと思うけどな
だってその行為の最大の特徴を無視しちゃったら、もう違うものだよ
外国語で俳句がルーツだけど五・七・五に拘らないんだったら
それには新しい名前をつける必要があると思う

あと俳句って「そぎ落とす美」だと思うけどな
五・七・五という最も狭い枠に拘るからこそ、一語に込める思いが強いんだと思うけどなぁ

575にも季語にも拘らなければ、では彼らにとっていったい何が「haiku」なんでしょうか。
引用元の質問者の方が言うように、日本語の俳句をその内包する意味も含めて翻訳したものが「haiku」と捉えられているのでしょうか。
それであれば単なる短いポエムでしか無いですよね。

ちょっと何言ってるのか分からないです。

季語必須・文字数制限アリ、というルールを守った上で詩的表現に挑むのが俳句の面白さというものだろうに。
それが不要だと思うなら、そもそも俳句に拘る意味が無い。
というか、日本語以外の言語でやる意味すら解らないんだが・・・。

分け入っても 分け入っても 青い山
なんていう自由律詩があるからなんでもいいんじゃねーの

日本語だったらこだわれ。外国語だったら自由にしろ。
そもそも、俳句を名乗ろうとするから575に縛られる。
俳句から発想を得た新しい形式の詩である、としてルールを作って何か別の名前をつければいいだろ。

HAIKUとは一体・・・うごごごご

日本語的に語呂がいいから五七五を基本とするけど
英語や他言語で音節で五七五だと語呂はいいの?

字余りや字足らずでも成立するのは語呂がいいからだよね。
端的に語呂よく詠めれば、それで良いんじゃね?
その延長で自由律が成立している訳だし。

フィボナッチ俳句面白いな
俺達がどれそれは、俳句でないだのなんだのを
海の向こうにあーだこーだ言ってもしょうがない
楽しむ事が俳味そのものなんだから、彼らなりの俳句を楽しんでいけばいい

ごーしちごー 語呂がいいから ごーしちごー

アルファベット圏では日本語のシステム自体異質なんだから
最小限で意味も思いも伝わりリズミカルな音節数を揉み続けて
自分達にとってベストな型を確立させていけばいい
その中でこういった問題提起や議論が起こるのは当然
It's a your business.
日本語の17音は彼らには関係ないし
ただ5・7・5に寄せただけでHAIKUと名乗られてもね

でもお願いだから俳句と川柳の区別だけは徹底してほしいかな

そういう言葉遊びだからなぁ~
575という前提条件があってからこその俳句……

>>●ニューブランズウィック州、カナダ:女性
>>ええと、他の人に関しては分からないけど私としては、575の音節で書かれた俳句のほとんどが冗長にな>>ってしまう傾向にあるというのが問題の論点だと思う。
>>俳句を正しい音節数にするために余計な言葉を付け足す事がよくあるから。
>>普通、英語の575形式で詠まれた俳句は、伝統的な575形式で詠まれた日本語の俳句よりも多くの情報を>>持っている。英語の音節と日本語の音(おん)は同じものでは無いから。
>>日本語の音(”おん”や”かな”と呼ばれている)は英語の音節よりも短いんだよね。


結局はこれなんだよ。日本語の575音ルールを英語の575音節ルールに変換する事に無理があった。
最善の方法ではあったけどね。そしてそもそも575リズムは彼らには特別美しいものとは感じられていない。

で、それを認識した上で何が論点かと言うと、上記の無理を通して相変わらず575音節を貫くか、
自由にしてしまうか。後者の場合それを俳句と呼んでよいのか、ということ。

自由にするのはまぁ勝手だけど、正直そこには「俳句の珍奇なルールには欠陥がある、だから英語で俳句を詠むのが難しいんだ。白人様のセンスとロジックで改善してやろう」っていうエゴが見え隠れしてるんだよね。
自分の作詩能力不足よりも先に俳句のルールに疑いをかけちゃってる。

日本語でだって俳句を読むのは決して簡単ではない、575音を守りつつも詩として美しくまとめるのは日本語でも苦労してる、そしてそこにこそ俳句のゲーム性がある、と言う事を彼らは知るべき。
簡単に詠めたらルールのある詩じゃないんだよ。そういうジャンルを形成している意味がない。
知った上でそれでも自由にしたいならもう止めないけど、それは俳句ではないと理解してほしい。

575リズムに全く意味や美しさを見出せないから他のリズムに変えたいという主張も有るかもしれない。
それも自由だし、ちゃんとルールとして成立させられるなら大いに結構な事だが、それもまたすでに俳句ではなくなるのは避けられない。

外国の人は単語の数が少ない俳句のコンパクトさに魅かれたんでしょうね。
五七五は外国の人には恐らく意味はないので五七五はコンパクトな詩を作成
するための便方として利用してるだけでしょう。
英語では五七五音節で作れば誰でもコンパクトな3行詩を書けるという具合に。

日本語は3文字以下の単語がたくさんあるから組み合わせると五七五で
安定しやすかったので日本人はそのリズムを美しいと感じたんですね。
たぶん。

でも外国の人には五七五の必然性は存在しないのでその制約を窮屈に感じて
疑問を持つのは当然でしょう。

だからコンパクトな詩を作れたことで目的は十分達成されたはずなので
五七五でことば遊びをしたい人以外は五七五に拘る必要はないと思います。

でもそれは俳句ではなくコンパクトな自由詩だと言いたいけれど
そもそも俳句を日本語以外で作成すること自体に相当無理があるので
あまり目くじらを立てる必要もないですね。

彼らだってその英語のコンパクトな3行詩を読んで俳句なのか自由詩なのか
区別はつかないでしょう。

Podigla suknju
bezobrazna košava
curi na mostu.


彼女はスカートを持ち上げた
失礼なKosava
橋の上の少女

クロアチア語の俳句を見つけた
Kosavaはこの地に吹く季節風でaが最後の言葉は女性名詞
万葉集にも明日香風が采女の袖をゆらす場面が出てくるが風が男か女かという感性は無い
haikuは今の時代だからこそ面白いと思う


*266 綺麗な文章ですな 

俳句のリズムは実は8拍・8拍・8拍
前から順に3拍・1拍・3拍の休符を挟んでいると聞いたとき
ちょっと世界が変わった。

※266

>外国の人には五七五の必然性は存在しないのでその制約を窮屈に感じて疑問を持つのは当然でしょう。

まったくもって同感。
七五調はあくまで日本語の音とリズムから必然的にうまれた、日本語にしかそぐわない形式だからね。

>そもそも俳句を日本語以外で作成すること自体に相当無理があるので
>あまり目くじらを立てる必要もないですね。

日本語の一音=英語の一音節という出発点がすでに無理やりなわけだし。

彼らは日本文化としての俳句にけちをつけたり疑問を呈しているわけではなくて、英語で詠むHaikuには575は必要ないのではと議論しているんだよな。

だから※欄で反射的に自分達の文化を否定されたと頭に血が上ってる人は、冷静になったほうがいい。

インガオホー、生まれ変わったら、絶対に勝つ

*267
>Podigla suknju/bezobrazna kosava/curi na mostu.
>彼女はスカートを持ち上げた/失礼なKosava/橋の上の少女

季語もありコンパクトで情景が浮かび余韻もあっていいですね。
どの詩を読んでもクロアチア人が同じリズムを感じるなら俳句といっても
良さそうですね。

*269
浮世絵が西洋画に影響を与えたとの同じように俳句が国外の詩に影響を与えて
いるのでしょうね。「油絵具で浮世絵を真似しているんだけどこの辺はちょっと
馴染めないよね。みんなはどう思う?」って感じでしょうか。

*268
以前同じ趣旨のコメを書いて自分で削除したのですが賛同者(^^)がいたので
懲りずに手短に最書き込みます。

俳句って歌うように「五音の最期を少し伸ばして読む」時は音楽的には
4拍子(8拍子)の等拍リズムになりませんか。
待ちぼうけは俳句ではないけど旋律があり4拍子をイメージしやすいので
一緒に並べています。

12345678|12345678|12345678
待ちぼうけ♪♪♪|♪ある日せっせと|野良かせぎ♪♪♪
古るいけや♪♪♪|♪かわず飛び込む|みずのおと♪♪♪
あき深かき♪♪♪|となりはなにを♪|するひとぞ♪♪♪

五音の終わりは8分音符で3個の休符があって
七音の冒頭か末尾に8分音符1個の休符がある。

普通に読む時は4拍子ではないかも知れませんが俳句のベースには歌が
あったのでどの俳句にも同じリズムを感じるのではないでしょうか。
たぶん日本人はこの4拍子の等拍のリズムを音楽的に心地良いと感じる
のでしょうね。

他の国の言語での俳句では等拍でなくても音読した時にいつも同じリズム
で聞こえる工夫があれば良いのでしょうが、言語によりアクセントに特有
の癖があるので難しいかも知れません。

そもそも同じリズムで聞こえることに美や心地良さを感じなければ意味が
ないですしね。

他の国の言語では俳句の五七五を利用して少ない言葉で心象や情景を表現
できる短い詩を楽しんで書ければそれで良いのではないでしょうか。

あれだ
卓球の魅力をもっと世間にひろめるために改良しよう初心者用にラケットも玉も大きく台はいっそなくして地面でミニスカートなユニフォームにしてアピールを、的な
なんかの漫画で読んだわ

そんな感じ

季語とかに拘らないでいいじゃんって人の中の川柳の立ち居地が気になる

彼らも経験を多く積めば、自分の詠みたい様に詠むようになるんじゃないかな…そうなれば万事よしだ!!

それはすでに俳句じゃなくなってるだろ・・・
575というのはそぎ落としてそぎ落として無駄を省いた形式だ。
蛇足というものを学んだほうがいいぜじいさん。

もし、シェイマス・ヒーニーの俳句を
日本語にしたらこんな感じでしょうか

薄氷の
街のお供は
父の杖

凍りつく
路のお供に
父の杖

フィボナッチ俳句って面白いね、初めて知ったw
俳句の575は日本人が好きな白銀比だって説もあるのね

他国の文化に触れるは良い事だが欧米人達は自分達好みにカスタマイズした挙句それを押し付け標準化しようとするのがウザイ。

コレって「何でバッターはバットで球を打つの?」ってのと同じでは?
ルールに縛られてるからこそ意味を成してるのに。(字余りとかもあるけど)

それに英語と日本語では全然別物になるのも確かで、
↑の人のも、それもう詩じゃんとしか言い様の無い物になってるよね。
一度高校生の俳句大会見せてやりたいね、どれだけ真剣に575に思い込めてるかって。

語句が少なくても俳句は作れるし、
先ず日本語ありきで作る様にすれば良いのにね。(日本語で作って英語に変換)
こんな時日本語でどう言うか、5か7に当てはまる言葉は無いか、
ヘタすれば日本人より余程難しい日本語をマスター出来るかも知れない。
ただまぁ、カジュアルさが無くなって俳句人口減るだろうけど…。

うん。まぁ、分かるよ。分かる。些細だよね。


けどな、五七五で詠むのが俳句なんだよ。定義じゃ。ボケ。
ついでにいうと、俺は外国語俳句は俳句だと思ってない。詩歌をものす人じゃないけど。

>>「575にこだわる必要あるの?」
つ自由律俳句
自由律はあまり受け入れられてない感じはあるけど。
あの575の音だからこそ俳句である、という思いはある。
まぁ、芸術の世界だから各自の良いと思うルールでやりゃ良いと思うよ。

一音一音がほとんど同じ長さで発音される&高低アクセントの日本語音と、長短強弱の音節が並ぶ英語を比べたってなぁ
575やみそひともじは、そういうもんだという感覚の世界だと思う
それが日本語の、最も小粋で快くて美しいリズムなんだもの
だからこそ俳句や短歌、都々逸といった詩歌の一部が独立して特定の言い回しになったりもする
まぁネイティブかよほどの学習者じゃないとわからないわな

俳句を日本語以外の言語でやるのがそもそも無理だ

一文字一文節じゃない英語で出来るわけないだろうに。
不毛な論争だ。

英語の特徴とアメリカで好まれるリズムを使えばいいと思うなぁ
最高にシンプルで、リズムがあって、季節感があるのが肝なんだし
それを追求していけば日本の575(77)みたいな型が自然に出来上がるはずだよ

そもそも言語がちがうのだから、その違いがあった上で
俳句を好いているのだから、
好きにやれば良いのさ。 その中で、アルファベットに適した表現が生まれるだろう。
文化とはそうゆうもんだ。

文化的国粋主義者なんて糞くらえだ。
ついでに言えば、アルファベット表現の俳句に文句をつける国粋主義者はレベルが低すぎる。
本物の国粋主義者にも、多文化主義者にも笑われるぞ

HAIKUは好きにやってればいいよ
少なくとも日本人はHAIKUを俳句とは思わんがな

●なぜ拘るのかって?

俳句ってのは「言葉遊び」だからな。
っていうか、日本の「言葉遊び文化」の集大成だ。
そのバックボーンがあって、俳句が生まれた。

なのに、その感性として何の文化も持たない人達がいきなり俳句を
語るのは、空を目指すライト兄弟が月に行こうとするくらい無理がある。 
芸術的形状を紡ぎ出すように、言語表現を練る事を楽しんでほしいね。

遊びのルールに拘らなければ、その遊びは楽しめない。
ルールを破っても同じ評価なら、その遊びの価値は破綻する。
ただ、外国語でやるのなら、外国独自のルールを作ったほうがいいかもね。

自由律俳句ってのもあるけどな。

つか、俳句は日本語でしか成り立たねーんだよ馬鹿外人
俳句と称してお前らがやってんのは単なるショートポエムだ
最初に伝える際にキチンと説明しないからこうなる
年寄りは「外人さん、金髪さん」なんてリアルに言って媚びてたぐらいだし
日本由来に触れて貰えるだけで光栄に思いその名誉に満足してたんだろうが

とり食えば
金がなくなる
聖夜かな

*77
ずうとるび?

いえいえそれは

あのねのね

お前ら外人がクラシックがきちんと小節で成り立ってなくて小節毎にバラバラの長さで構成されてなくても構わないなら俳句も自由にすりゃいいがな
違うだろ?

まあどうしても五七五に拘りたくないなら好きにすりゃいいさ
ただしそれは『日本の俳句』じゃない

そもそも575、57577、七五調などは、
『日本人の耳に心地良いリズム』だからなのであって
外国語でやろうってのが間違い

どっかで歯止めかけねえと"JUDO"みたく見るも無惨なざまになっちまうぞ

>文化的国粋主義者なんて糞くらえだ。
>ついでに言えば、アルファベット表現の俳句に文句をつける国粋主義者はレベルが低すぎる。
>本物の国粋主義者にも、多文化主義者にも笑われる

グローバルな視野を持つレベルの高い()俺カッケーってか(失笑)
換骨奪胎どころか屋台骨抜くような事言ってて恥ずかしくないか?気づいてねーか、馬鹿だもんなw

>欧米人達は自分達好みにカスタマイズした挙句それを押し付け標準化しようとするのがウザイ。

アメリカ人が主だそうだ。フランス人曰わく、自分達は原典を尊重するがアメリカ人は何でも自分流にアレンジしたがるから相容れない、だと。

※そもそも言語がちがうのだから、その違いがあった上で俳句を好いているのだから、好きにやれば良いのさ。 

俳句の定義を否定するのが俳句を好いている?バカジャネーノ。
笑わせるな。
じゃあお前、野球を足で蹴ってサッカーをバットでやってくれ。もちろんこれが野球だサッカーだと宣言しながらな。
そうして生まれたものが文化なんだろ?

自由律俳句?ありゃ正岡が狂ったように古典を罵倒しながら訴えたパッタモンだ。

俳句や短歌は結局のところ4分の4拍子なのです。
○○○○/○***/(小節の頭から五文字読んで三拍休む)
*○○○/○○○○/(一拍休んで七文字)
○○○○/○***/(後ろ三拍休む)

日本の俳句にも字余り、字足らずはあるのだから、英語で詠むときも音節、語数に執着するのではなく、このリズムに収まりの良いようにしてみると恰好がつくかもしれない。などと思いました。

5+7+5+7+7の和歌が元で、ひと月の日数になっている。天地アワの節だそうです。
間が入らないように魔除けの場合は32文字になる。例:君が代。
言霊的・重要なこと・未来などの重要なことにアワの節は使われていたと思う。
上下から詠んでも終わりが来ない廻り歌というのもあるようです。
いわゆる返信できない一方的な詩。。

・キシイこそ 妻を身際に 琴の音の 床に吾君を 待つそ恋しき
・長き夜の 絶おの眠りの 皆 目覚め 波平り船の 音の良きかな

なぜシェークスピアについて触れられない?
俺はちょっと触れただけのド素人だから専門家たらしく説明するのもおこがましいが、日本語が詠む時の音律として575を重視するように、イギリスではシェークスピアは劇において弱強五歩格、あるいはそれを意図的に崩すことによる表現が大衆の支持を得ている
音韻を愛する感性は日本人特有のものでないし(haikuで詠むという行為がもし重んじられてないなら確かに皮相浅薄だと嘆かずにはいられないが)「所詮ガイジンごときには俳句を理解することはできない」なんていう態度はあまりに浅はかだ

五七五七七 は神様に言葉が届きやすいリズムとされている。
なので、現在も天皇は和歌の形式をとって祈りを捧げている。
明治天皇は生涯に十万首の歌を詠んだ。
人生は約3万日しかないのだから、一日に十首も二十首も詠んだ日があるのだろう。


連句をベースにやってたのを、
俳句として独立させたら、その独立のあり方として自由律が浮かんでくるのは当然だと思うけどな…

和歌らしさ、俳句らしさって、別に韻律がどうかって問題じゃ無いだろ
江戸時代の和歌の論ですら、「形として残りやすいからこの韻律が使われた」という意見が多いように思うし

戦前の「日本精神の発達が…」とかいう野暮な意見を真に受けすぎなんじゃ無いのか?

ていうか、このスレの人たちが書いてる俳句って俳句じゃなくて川柳じゃないの?
季語も切れもないじゃん

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